2025年5月

今までは 他人が死ぬとは 思ひしが
俺が死ぬとは こいつぁたまらん (蜀山人)

先日、僧侶の先輩がおっしゃっていました。

 

私は、お通夜の法話では、無常を語るようにしている。
亡き人が、そのかけがえのないいのちを使って、今、大切なことを教えてくれている。
それは、いつか自分が死ぬということだ。
人間は、それを見ないふりをする癖をもっている。
けれど、そのことに向き合ったところ、宗教というものが始まるのではないか。

 

そんな内容でした。

 

本当にそうだな、と思いました。

 

人間いつかは必ず命終えていかねばなりません。
知っては、います。
ですがそれを、自分の話としては、なかなか受取りにくいのではないでしょうか。

 

新聞やテレビでも、他人の死について、よく見聞きします。
他人事としては、「死んだら終りだ」など、とうそぶくこともできます。
ですが、その死が、実際に、私の目の前に来ます。
必ず、来ます。

 

その時に、「死んだら終わりだ」では済まないものを、私は持っている。

 

そのことが、宗教のスタートになる。

 

この度の言葉は、そのことを教えてくれる歌のように思えます。

 

私のこととして、死が問題になった時、初めてこの口にかかる南無阿弥陀仏の意味が、変わる。

 

そんな一面も、あるのかもしれません。

 

称名相続

2025年4月

桜散る。梅はこぼれる。椿落つ。ぼたん崩れる。人は・・・。

4月に入り、お寺の桜もやっと咲き始めました。
ぜひご覧になりにお越しください。

 

そんな中、早速、桜の散っていく言葉を掲示するのもどうかとは思ったのですが、今の時期だからこその言葉でもありますので、掲示しております。

 

花が咲く。
このことを、これほど多く言い換える言葉は、おそらくないのではないでしょうか。
しかし、花が散るという表現が、花によってこれほど多くの表現願されてきたというのは、驚きです。

 

先人方は、それほどまでに、花の最期を様々な思いで眺め、惜しまれ、言葉にされてきたのでしょう。

 

「人は」、の次は、どのような言葉を連想されますか。

 

「冷たくなる」
「無になる」
「星になる」

 

人それぞれ、様々な言葉が続くのかもしれません。

 

ですが、その言葉には、その人の宗教観がよくあらわれるのではないでしょうか。

 

お念仏をいただく私たち仏教徒からは、迷うことはありません。

 

「往生する」
「成仏する」
「仏さまになる」

 

未だ経験しない先のことですが、今私の口にこぼれる南無阿弥陀仏には、間違いなくそうさせる力が具わっています。
阿弥陀さまに抱っこされ、間違いなくそうなる人の口には、南無阿弥陀仏がこぼれます。

 

新幹線が、間違いなく目的地に着くように、
卒業式の後には、入学式があるように、
この世の縁が尽き、命終えたその時には、間違いなくお浄土に往生させてもらいます。

 

私がそうするのではありません。

 

そうしてみせるというはたらきが、今、南無阿弥陀仏と届いているから、
未だ経験しない未来について、そう言い切っていける。

 

それが、浄土真宗という仏教の、大きな大きなご利益です。

 

称名相続

【住 職】 園 淵 和 貴  【前住職】 園 淵 和 夫
【住 所】 〒555−0001 大阪市西淀川区佃1−11−3
【電 話】 06 ( 6471 ) 6330
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