2025年12月

「なんでもない日、おめでとう。」
  不思議の国のアリス
  「お誕生日じゃない日の歌」より

インターネット上で見かけたこの言葉。
すごい内容だと思いました。

 

梯實圓という和上さまが、仏さまのおさとりについて、次のような内容を、本にお書きでした。

 

・私たちは、この世界を、本当に認識し、生きることができているのだろうか。
・この世界を、本当に自分の目で見て、自分の言葉で語り、表現できているのだろうか。
・実はこれが、本当に難しい。

 

・私たちはほとんど、他人の目で見たものを、他人の言葉で語っている。
・「これは本です」と言われても、私はこれが、本当に「本」であるかどうか、知らない。
・「これは本だよ」と教えられたから、これを「本」だと思い、「本」と呼んでいるだけで、それは他人の目で見たものを、他人の言葉で語っているに過ぎない。

 

・本当の意味で、自分の目で見て、本当の意味で、自分の言葉で語る。
・それが出来れば、この世界は、なんと広く、なんと自由であることか。

 

・そんな視野で日々を歩むことができれば、視野はどんどん開き続け、世界はどんどん広がり続ける。
・出来合いの世界ではない、極めて新鮮な、どこにも存在しなかった真新しい日々を、驚きと、喜びの中で、歩んでいける。

 

 

この本を読んだ時、梯和上は仏さまだったのかもしれない、と、本気で疑いたくなりました。
そしてそんな中で、先の言葉を、インターネットで見かけたのでした。

 

「なんでもない日、おめでとう。」

 

なんでもない日を、誕生日であるかのような、特別で、真新しい、一日目として、驚きと、新鮮さに満ちた眼差しで、語っている。

 

すこし大袈裟なのかもしれませんが、そんなことを感じさせてくれる言葉でした。

 

称名相続

2025年11月

死で終わる人生には、過去しかないが、
浄土のある人生には、未来がある。

私たちは、人生という道を歩いています。

 

幸い、人間には言葉があり、自分の経験を後の人の残すことができます。

 

お陰さまで、人生に役立つような、様々な知恵や知識が、道路標識のごとくに乱立しています。

 

その意味で、人生という道には、先人方が歩まれたたくさんの足跡がありますので、どうやって歩けば良いか、何となく分かります。
「まさか!」、という坂もありますが、その乗り越え方も様々に知ることができます。

 

ですが、いのち終るという経験は、死ぬまでできませんから、その内容を言葉で残すことができる人は、いません。

 

ですから、死は、人生という道の終点、真っ暗な谷底へ真っ逆さまに落ちていく崖の先端のようにも思えます。

 

普段は、そのことを考えるのが怖いので、そのことを考えないように歩いていたとしても、いつか必ず、たった一人で、その崖に到着します。

 

しかもその時には、もうこの先に道がないのに、背中をぐいぐい押されているような、そんな切羽詰まった状況だとすれば、こんなにつらいことはありません。

 

でも、お念仏をいただいている私たちには、阿弥陀さまがご一緒です。

 

いのち終るそのときにも、阿弥陀さまだけは、ご一緒です。

 

阿弥陀さまは、おっしゃいます。

 

  あなたの言う「命の終わり」は、「死」ではなく、「お浄土への往生」なんだよ。
  崖の先端ではなく、お浄土への入口なんだ。
  道が途切れているのではなく、地続きで、そのままお浄土へ往くんだよ。
  私が一緒だから、大丈夫、安心してね。
  そこは、大好きな、懐かしい、あのお方々とまた会える、仏さまの国なんだよ。

 

有難いな、と思います。

 

「いのちの終わり」に、「死」という冷たいものと向き合う必要はありませんでした。

 

実家の灯りのような、あたたかな、なつかしい時間と向き合っていく。

 

安心の未来をいただいていける、というのが、阿弥陀さまのご用意でありました。

 

称名相続

2025年10月

乗れば人、歩けば車、邪魔になり

人というのは、本当に自分中心ですね。

 

と、人を指させば、人差し指の下の三本指が、私自身を指しています。

 

そうです、まったく私の事。反省です。

 

誰にだって、他人を大切に思う心が、あるにはあります。

 

ですがその心も、「せいぜい車一台分」だと聞きました。

 

例えば、車を運転して道を走っているとき、道路沿いのお店から道路に出たそうにしている車が一台。

 

時間に余裕があるので、どうぞ、って感じで入れてあげます。

 

が、その一台に続き、もう一台が、当然のように入ってくると、急にモヤっとしませんか。

 

いけないいけない、今日は時間にも余裕があるし、せいぜい10秒ほどのこと。まあ良いじゃないか。

 

と、「少し余裕のある自分」が、「イライラする自分」をフォローします。

 

ですが、モヤッと出てくるその心そのものを、出ないようにすることは、できそうにありません。

 

人は、煩悩成就、自己中心の眼差しで生きるものです。

 

安いか高いか、多いか少ないか、明るいか暗いか、成功か失敗か。

 

人により、状況により、その時々で、簡単に変わる物差しです。

 

その物差しを使って、仏さまに近づく、善を行う、ということは、ほぼ不可能。

 

だからこそ、阿弥陀さまがお立ちです。

 

煩悩という病を治してからおいで、とはおっしゃいませんでした。

 

その病を治療するのは、私の仕事だ。
そのままくれば、それでいいと、おっしゃってくださいます。

 

称名相続

2025年9月

ドラえもん シールだらけの 引き出しが
タイムマシンと なる里帰り

まだまだ暑い日が続くようですが、
9月は、秋のお彼岸の季節です。

 

真西に沈む夕日を眺め見るとき、
もしくはお墓参りをする時間の中で、
お浄土のことを想います。

 

お浄土は、ふるさとのような、あたたかな時間が流れるといわれます。

 

今月の言葉は、そんなふるさとの味わいを胸に、掲示しております。

 

きっとのび太が大人になった時、
もう隣に、ドラえもんはいなくても、
子供時代に使っていた勉強机を見ては、
同じような想いを抱くのではないでしょうか。

 

もう戻ることはできない時間だけれど、
思い出が時間を巻き戻してくれることもあります。

 

真西に沈む夕日を眺め見るとき、
もしくはお墓参りをする時間の中で、
お浄土のことを想うとき、

 

そこには、なつかしい時間が流れるのではないでしょうか。

 

称名相続

2025年8月

大切なものは、持っている人より、もっていない人の方が、分っている。

この標語を見て、この歌詞を思いました。

 

 夢は砕けて夢と知り

 

 愛は破れて愛と知り

 

 時は流れて時と知り

 

 友は別れて友と知る

 

阿久悠さんが作詞された、「古城の月」の歌詞です。

 

どうでしょう。
うなづかされる、深い、深い、ことばです。

 

人というのは、なぜこうも一歩遅れでばかり気が付くのでしょうか。

 

本当のことは、過去形でばかり、知らされるような気がします。

 

そしてそれは、いのちの問題でも同じではないでしょうか。

 

いのちの終わりを問題にするとき、自分が元気で余裕がある時は、
「死ぬことを考えるなんて、暗いやつだ。」
「なぜそんなに後ろ向きな考えをするのか。」
などと思ってしまいます。

 

ですが、自分の順番は、必ず来ます。

 

そして、いのちを失うその時、元気もない、余裕もない、まさにその時に、初めて知らされる世界があるのかもしれません。

 

そうか、仏教が言っていたのはこのことだったのか。もっとちゃんと聞いておけばよかった。
と涙するのか、

 

そうか、お浄土があるというのは、こういうことだったのか。本当に有り難いことだった。
と涙するのか。

 

「いのち終った先に、お浄土がありますよ。」

 

今はピンと来ないかもしれません。

 

いやむしろ、最期までピンと来ないかもしれません。

 

ですが、仏さまは、「ピンと来い」とはおっしゃいません。

 

「分かれ」ではなく、「分からなくてもいいから、聞いておいてね」とおっしゃるのが、お浄土です。
それは何故か。
必ず連れていくとおっしゃる阿弥陀さまが、今、南無阿弥陀仏でご一緒だからです。

 

いのちの終わりについては、人間の経験則では、絶対に間に合いません。
ですから、人間の知恵で頑張るのではなく、
仏さまの智慧をお借りして、お浄土があると知っておけばいいのです。

 

「いのち終ったら、お浄土によせていただく。」
お念仏いただく我々は、今、そのことを、お念仏でいただきます。

 

一歩遅れでしか気づくことのできない私ですが、
その私にも間に合うように、先だって決定されてあるのが、今お聞かせいただくお救いです。

 

私の至らなさを、全部お見通しの阿弥陀さまでした。
先んじて、お救いをご用意くださるその周到さに、頭が下がるばかりです。

 

称名相続

2025年7月

過去の事実を変えることはできないが、
その意味を変えることはできる。

先日、中学生の娘が、期末テストの結果を嘆いていました。

 

その割に、なかなか復習しようとしないので、テスト直しをするように説得していたのですが、その時、彼女にこう伝えました。

 

テストの点数が悪いことはショックだし、テスト用紙を見るのも嫌だと思う。
けれど、テストの復習をすると、テストを受けたことに、意味が生まれる。
今のままだと、思い出したくもない、嫌な思い出が残るだけだけれど、
頑張って復習をすれば、あのテストがあったから、この問題が分かった、勉強することができたと、次につながる。
嫌なテストだった、で終わってしまうのではなく、そこから開かれる世界があるなら、
悪い点数をとったという事実は変わらないけれど、
その悲しみが、単なる悲しみではなく、無駄ではなかったと思える。
嫌な思いはしたけれど、やっぱり大切な事だった、
そう思える方が、いいよね。

 

我ながら、どの口が言ったのかと思います。

 

しかし、今振り返ってみると、大切な人との別れも、少し似ているのかもしれないな、と感じました。

 

大切な人との別れには、他人が踏み込むことのできない、大きく深い悲しみがあります。

 

でも、その悲しみを、私以上に悲しまれ、一緒に泣きながら、抱いてくださる仏さまがいました。

 

大きな大きな悲しみだけれど、そこから知らされる世界があると、この悲しみが、悲しみのままでは終らなかったということです。

 

一人ぼっちの世界ではない、仏さまと歩む世界があった。

 

死んで終わりの世界ではない、この人生の先に、お浄土をいただく未来があった。

 

あの時の、あの悲しみは、狭い狭い私の世界に、穴をあけてくれたのかもしれない。

 

あの悲しみが、窓となってくれたのかもしれない。

 

その窓を通して、手を合わせていける世界、お念仏の世界と、出遇っていくことができたのかもしれない。

 

人生を振り返ると、様々なことがありました。

 

でも、この人生、どこを押さえても、阿弥陀さまがご一緒でした。

 

念仏者の人生は、

 

無駄な時間を、捨ててきたのではない、

 

尊い尊い時間を積み重ねてきた人生であったと、新しい意味が与えられていくのではないでしょうか。

 

称名相続

2025年6月

「必ず死ぬのに、なぜ生きる」。
それは、
「必ず帰るのに、なぜ旅行する」、と同じである。
帰るお浄土を持つ者は、そう言える。

今月の言葉は、インターネットの質問コーナーを参考に作成しました。

 

もう10年ほど前でしょうか、インターネットで調べ物をしていて、質問コーナーで検索をしていた時に、こんな質問を見かけました。

 

「どうせ死ぬのに、なぜ生きるのですか。」

 

この問いに対して、様々なお方が、様々な答えを書いておられました。

 

・これは永遠の問いとも言われ、人間には分かりません。

 

とか、

 

・その答えを見つけるために、みんな生きているのです。

 

とか、

 

・人生に意味はありません。だから、あなたが人生に、意味をプレゼントするのです。

 

とか、

 

・その答えを見付けることができた人は、むしろ幸せだ。普通は誰も、その答えにたどり着けない。

 

などとありました。

 

私は、その人の宗教が、その答えをくれると思っていますが、答えの中に、一つ目を引く回答がありました。

 

・その問いは、「どうせ帰るのに、なぜ旅行に行くのですか」という問いと、同じだと思います。(小2男子のママ)

 

ああ、本当だな、と思いました。
そしてやっぱり、人生を終えた時、安心して帰っていける、いのちの終着点が必要だな、とも思いました。

 

お念仏いただく我々は、その人生の最後に、阿弥陀さま、親さまのご実家に帰ることができます。

 

未だ行ったことはありませんが、抱いてくださる阿弥陀さまが、「さあ、帰ろうね」と仰ってくださるので、「はい、帰らせていただきます」と言えるのでした。

 

われ称え、われ聞くなれど、南無阿弥陀仏、つれてゆくぞの、親のよびごえ(原口針水和上)

 

今日も、お念仏と共に、この人生に、尊い歩みをいただきます。

 

称名相続

2025年5月

今までは 他人が死ぬとは 思ひしが
俺が死ぬとは こいつぁたまらん (蜀山人)

先日、僧侶の先輩がおっしゃっていました。

 

私は、お通夜の法話では、無常を語るようにしている。
亡き人が、そのかけがえのないいのちを使って、今、大切なことを教えてくれている。
それは、いつか自分が死ぬということだ。
人間は、それを見ないふりをする癖をもっている。
けれど、そのことに向き合ったところ、宗教というものが始まるのではないか。

 

そんな内容でした。

 

本当にそうだな、と思いました。

 

人間いつかは必ず命終えていかねばなりません。
知っては、います。
ですがそれを、自分の話としては、なかなか受取りにくいのではないでしょうか。

 

新聞やテレビでも、他人の死について、よく見聞きします。
他人事としては、「死んだら終りだ」など、とうそぶくこともできます。
ですが、その死が、実際に、私の目の前に来ます。
必ず、来ます。

 

その時に、「死んだら終わりだ」では済まないものを、私は持っている。

 

そのことが、宗教のスタートになる。

 

この度の言葉は、そのことを教えてくれる歌のように思えます。

 

私のこととして、死が問題になった時、初めてこの口にかかる南無阿弥陀仏の意味が、変わる。

 

そんな一面も、あるのかもしれません。

 

称名相続

2025年4月

桜散る。梅はこぼれる。椿落つ。ぼたん崩れる。人は・・・。

4月に入り、お寺の桜もやっと咲き始めました。
ぜひご覧になりにお越しください。

 

そんな中、早速、桜の散っていく言葉を掲示するのもどうかとは思ったのですが、今の時期だからこその言葉でもありますので、掲示しております。

 

花が咲く。
このことを、これほど多く言い換える言葉は、おそらくないのではないでしょうか。
しかし、花が散るという表現が、花によってこれほど多くの表現願されてきたというのは、驚きです。

 

先人方は、それほどまでに、花の最期を様々な思いで眺め、惜しまれ、言葉にされてきたのでしょう。

 

「人は」、の次は、どのような言葉を連想されますか。

 

「冷たくなる」
「無になる」
「星になる」

 

人それぞれ、様々な言葉が続くのかもしれません。

 

ですが、その言葉には、その人の宗教観がよくあらわれるのではないでしょうか。

 

お念仏をいただく私たち仏教徒からは、迷うことはありません。

 

「往生する」
「成仏する」
「仏さまになる」

 

未だ経験しない先のことですが、今私の口にこぼれる南無阿弥陀仏には、間違いなくそうさせる力が具わっています。
阿弥陀さまに抱っこされ、間違いなくそうなる人の口には、南無阿弥陀仏がこぼれます。

 

新幹線が、間違いなく目的地に着くように、
卒業式の後には、入学式があるように、
この世の縁が尽き、命終えたその時には、間違いなくお浄土に往生させてもらいます。

 

私がそうするのではありません。

 

そうしてみせるというはたらきが、今、南無阿弥陀仏と届いているから、
未だ経験しない未来について、そう言い切っていける。

 

それが、浄土真宗という仏教の、大きな大きなご利益です。

 

称名相続

【住 職】 園 淵 和 貴  【前住職】 園 淵 和 夫
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