西法寺トップ
当山は、正式名称を「浄土真宗本願寺派 淵淵山 西法寺」と申します。
阪神電車の千船駅から徒歩15分。
大阪市西淀川区の佃にある仏教寺院です。
一口に「仏教」と言っても、様々なご宗旨があります。
その中、当山は、「浄土真宗本願寺派」に属しています。
ご本山は、京都にある本願寺(西本願寺)です。
阿弥陀如来という仏さま、「南無阿弥陀仏」というお念仏を、
大切に仰ぐご宗旨です。
今月の掲示板
西法寺の正門の右に、小さな掲示板があります。
5月は、この言葉を掲示しております。。
今までは 他人が死ぬとは 思ひしが
俺が死ぬとは こいつぁたまらん (蜀山人)
先日、僧侶の先輩がおっしゃっていました。
私は、お通夜の法話では、無常を語るようにしている。
亡き人が、そのかけがえのないいのちを使って、今、大切なことを教えてくれている。
それは、いつか自分が死ぬということだ。
人間は、それを見ないふりをする癖をもっている。
けれど、そのことに向き合ったところ、宗教というものが始まるのではないか。
そんな内容でした。
本当にそうだな、と思いました。
人間いつかは必ず命終えていかねばなりません。
知っては、います。
ですがそれを、自分の話としては、なかなか受取りにくいのではないでしょうか。
新聞やテレビでも、他人の死について、よく見聞きします。
他人事としては、「死んだら終りだ」など、とうそぶくこともできます。
ですが、その死が、実際に、私の目の前に来ます。
必ず、来ます。
その時に、「死んだら終わりだ」では済まないものを、私は持っている。
そのことが、宗教のスタートになる。
この度の言葉は、そのことを教えてくれる歌のように思えます。
私のこととして、死が問題になった時、初めてこの口にかかる南無阿弥陀仏の意味が、変わる。
そんな一面も、あるのかもしれません。
称名相続