西法寺トップ

当山は、正式名称を「浄土真宗本願寺派 淵淵山 西法寺」と申します。
阪神電車の千船駅から徒歩15分。
大阪市西淀川区の佃にある仏教寺院です。
一口に「仏教」と言っても、様々なご宗旨があります。
その中、当山は、「浄土真宗本願寺派」に属しています。
ご本山は、京都にある本願寺(西本願寺)です。
阿弥陀如来という仏さま、「南無阿弥陀仏」というお念仏を、
大切に仰ぐご宗旨です。

 


今月の掲示板

西法寺の正門の右に、小さな掲示板があります。
9月は、この言葉です。

ひとりひとりの子どもの背後に「親」がある。 
 子どもは「願われている存在」である。

どのような子どもであれ、その子の背後には、その子を「わが子よ」と喚(よ)ぶ親がいます。
親は、いつから子どもを喚び始めるのでしょうか。
それはきっと、生まれた時からではなく、そのずっと前、その子がおなかに宿った時から、「わが子よ、わが子よ」と喚ぶのではないかと思います。

 

「わが子よ」と喚ぶのは、親の名のりです。
どんなにやんちゃな子であっても、その子をどんなに叱った日であっても、決して捨てず、「それでもあなたが大事だよ」。
そう告げていく存在を、「親」と呼ぶのかもしれません。
どの様な子どもであっても、その子のいのちの上には、親の一生懸命が宿っています。
生まれた瞬間から、いのち宿った瞬間から、そのいのちの上には、大きな願いがかけられています。

 

 ひとりひとりの子どのも背後に「親」がある。
 子どもは「願われている存在」である。

 

この言葉をご覧になったとき、どの「子ども」を思い浮かべるでしょうか。
自分の子ども。親戚の子ども。ご近所さんや、友人の子どもなど、思い浮かべる姿は様々ですが、他でもない、私自身も、一人の子どもです。
親亡きお方であっても、親の子どもだったはずです。

 

この頭を撫でてくれた、親がいました。
泣く私を抱き寄せて、涙をぬぐってくれた、親がいました。
夕暮れに、この手を引いて、一緒に歩いてくれた、親がいました。

 

このいのちには、わが親の、一生懸命が宿っています。
その一生懸命に支えられ、今日まで来たのではなかったでしょうか。

 

今、どのような身であっても、変わらず私を、「わが子よ」と、喚んでくださる仏さまがいます。
その仏さまは、たとえ私が、年を重ね、知り合いが減り、故郷を離れねばならなくなったとしても、「帰るいのちの故郷があるよ。ともに歩もう」と、人生の夕暮れを、手を引いて、一緒に歩んでくださる、声の仏さまです。

 

阿弥陀さまは、今日も私の口を借り、南無阿弥陀仏、と喚んでくださいます。
「さみしくなったらお念仏をしてね。ほら、ひとりじゃない、ひとりじゃない。あなたのいのちの内側に、いつでも私は一緒だよ。」
わが身の上に、大きな願いがかけられてある。
そのことを胸に、今日を歩んでまいります。

 

【住 職】 園 淵 和 夫  【若 院】 園 淵 和 貴
【住 所】 〒555−0001 大阪市西淀川区佃1−11−3
【電 話】 06 ( 6471 ) 6330
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