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今月の掲示板
西法寺の正門の右に、小さな掲示板があります。
1月は、この言葉を掲示しております。。
極楽は本来親の里
親の里こそわしが里
南無阿弥陀仏と申すおさとり
浅原才市
皆さまは、「ふるさと」と聞くと、どのような情景を思われますか。
私は、童謡の「ふるさと」からの連想で、
日本昔話に出てくるような、田んぼの風景の中にあるかやぶきの家、
って感じの風景を思い起こしますが、
「自分のふるさと」、と言われると、自分の実家を思います。
きっとその人その人によって思い起こされる風景は様々だと思いますが、
どのような情景であれ、居心地の良い、ホッとできる、昔なつかしい風景が、そこにあるのではないでしょうか。
昔、ある新聞記事で、こんな内容を目にしました。
「居心地というものは、その場所にいる人達が、自分をどう思っているかに依る。」
なるほどな、と思いました。
自分のことをよく思っていない人たち、否定してくるような人たちの中には、居場所がありません。
反対に、自分を肯定的に捉えてくれる人たちの中には、安心があります。
その一つの例が、「ふるさと」ではないでしょうか。
幼かった懐かしいあの頃、親がいて家族がいて、ワイワイガヤガヤしながら過ごしたあの「全体」が、「ふるさと」です。
そこには、確かな居場所がありました。
どのような状況でも、手土産などなくとも、帰ることのできる場所でした。
夜遅くとも、灯りがついている場所でした。
大好きな父、母が、「おかえり」と迎えてくれる、安心の場所でした。
お浄土は、「ふるさと」です。
いつ、どのようなご縁で命終えるかは選べませんが、いつ、どのような状況でも、帰ることのできる場所でした。
実家の明りがついているような、あたたかな場所でした。
先に行ったお方々が、「おかえり」と迎えてくれる、安心の場所でした。
未だ行ったことはありませんが、阿弥陀さまが、「さあ、帰ろうね」と言ってくださるから、「はい、帰ります」と言っていける、いのちのふるさと。
その安心が、いのちの先にご用意されてあります。
一人で行くのではありません。
南無阿弥陀仏がご一緒です。
本年も、阿弥陀さまがご一緒の一年です。
称名相続