2023年7月
かたつむり どこで死んでも 我が家かな
先月の6月半ば、山口県の俵山温泉で、宗学の研鑽会に参加しておりました。
早朝、雨が降る中、お聖教を抱え、会場であるお寺に向かって歩いておりますと、大きなカタツムリが角を伸ばしておりました。
そのカタツムリを見たときに、先の俳句を思い出しました。
「かたつむり どこで死んでも 我が家かな」
江戸時代の俳人として有名な、小林一茶の句だそうです。
小林一茶は、浄土真宗のご門徒としても有名です。
ですから、きっと、阿弥陀さまがご一緒の人生、どのような命の終わり方をしても、必ずお浄土へ生まれていくということを知った上での句であろうと思われます。
中国の善導大師は、
「帰去来、他郷には停まるべからず。仏に従ひて本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず」とお示しです。
この娑婆は、仮の宿り。
お浄土こそが、本当の実家なんだとおっしゃいます。
いつ、どこで、命を終わったとしても、そこがお浄土参りの場所、
どのような命の終わり方であっても、お浄土参りとして、百点満点の姿です。
梅雨の六月、朝雨の中、そんなことを考えていました。
称名相続
2023年6月
人生にリセットボタンはないけれどね、
スタートボタンは何回押してもいいんじゃないかな。
今回の言葉は、芸能人でモデルのローラさんの言葉だそうです。
新型コロナ感染症が、第五類に変更され、マスク着用が義務ではなくなりました。
国内の移動が増えただけではなく、海外からの旅行者も増えています。
電車も満員になることが多く、マスクをしていない人も見かけるようになりました。
だんだん、コロナ前の状況を取り戻しつつあるように見えます。
それはお寺の行事も同様でして、僧侶の研修会や勉強会も、オンライン開催だったものが、対面での開催になりつつあります。
昨年、安居という僧侶の研修会に参加しました。
14日間、オンラインでの開催でした。
数日前、本願寺の安居事務所から、その参加記録が、冊子となって送られてきました。
懐かし思い出ペラペラとページをめくっていると、参加者中に、75才以上の御老僧が三人もおられました。
その中のお一人が、おっしゃっていました。
自分は会社を勤め上げた後、僧侶となって、勉強をし、安居に参加するようになりました。
息子や孫に、パソコンの操作を教えてもらいながら、何とか今年も参加でき、こんなに幸せなことはない。
そうおっしゃっておられました。
14日間、頭を使いまくる研修会です。
きっとパソコンの操作も大変だったと想像します。
その中でも、お寺での法務の傍らに、一年間、真面目にコツコツ研鑽を積まれ、オンラインで安居に参加する。
頭の下がる思いです。
今年も、7月後半に、安居が開催されます。
今年は、オンラインではなく、対面での開催だそうです。
身の引き締まる思いの中で、自分を励ます言葉として、ローラさんの言葉をいただきました。
南無阿弥陀仏
2023年5月
花は散っても、
花のいのちは散らない。
ある方が、桜の話を聞かせてくれました。
桜の花は、なぜ美しいのか。
いろいろ理由はあるけれど、花を咲かせているその時に、その花を遮る葉がないから。
ピンクの花と、黒い幹。
そのコントラストが、美しい理由の一つと言われるそうです。
そう。
桜は、花が咲いている時には、葉がないのです。
花が咲いた後に、葉が出てくる木です。
では、桜は、何のために葉を出し、お日様を浴びて、栄養を蓄えているのか。
それは、来年の花のためだっていうんです。
まだ来ない、来年の春、美しい花を咲かせるために、もうすでに準備をしている。
つまり、今咲いている花は、はるか一年前の春からの、桜の木の一生懸命が花咲いているすがたであり、花が散り、葉が茂る今から、もう、来年の花のための準備をしているんだそうです。
そうか。桜って、花は散っても、桜のいのちは散らないんだな。
思いもよらない、大きなはたらきに驚きます。
そんなことを教えてもらったご縁でした。
この話を、亡きお方の命に寄せて味わうこともできますが、私は、今、この口にかかるお念仏を想います。
今、私の口に出てくるお念仏も、今すぐ、ぱっと準備して出てくださるものではありませんでした。
南無阿弥陀仏の一声一声が、はるか遠く、昔からの、阿弥陀様の一生懸命が、花開いたすがたです。
思いもよらない、大きなはたらきを、お念仏にいただいています。
南無阿弥陀仏
2023年4月
桜は、今を、懸命に咲く。
今を忘れてはならない。
地に足をつけ、今を生きる。
お寺の桜の木が、満開です。
美しい桜の姿に出遇い、散るはかなさに出遇い、
来年、花咲くそのために、すぐに葉をつける、一生懸命の姿に出遇います。
桜は、今、できること精一杯を生きています。
4月は、出会いと別れの季節です。
日々、様々な思いがよぎりますが、
今、自分にできる精一杯を、生きていきたいと思います。
称仏六字
2023年3月
咲く花に いのちつないで 梅が散る
お寺には、梅の木が四本あります。
一本は、白色。
一本は、紅色。
二本は、桃色。
肌寒い朝方に、ぽっと咲いている梅の花を見ると、すこし感動します。
寒いばかりの日が続くけれど、そうか、ちゃんと春は来ているんだな。
そう教えてくれているように思えるのです。
咲く花のうえに、春がそのすがたを現わし、そのはたらきを示します。
眼には見えないけれど、春が来たんだと知らされます。
お念仏をよろこんでこられた先人方は、この春のはたらきに寄せて、阿弥陀さまのはたらきを味わわれたそうです。
寒いばかりの娑婆世界だけれど、お念仏の花が、この口に咲いている。
お念仏するはずの無かったこの身のうえに、阿弥陀さまがお念仏となってそのすがたを現わし、そのはたらきを示してくださる。
眼には見えないけれど、阿弥陀さまがここに来られている、ご一緒だと知らされる。
「咲く花に いのちつないで 梅が散る」
梅の花が散っても、次の花が、ちゃんと咲く。
眼には見えないけれど、
受け継がれていくものがある。
そんなことを教えてくれる、今月のことばです。
南無阿弥陀仏
2023年2月
歳をとる。
いのちの長さを問うことば。
歳を重ねる。
いのちの深さを問うことば。
歳をとる。歳を重ねる。
どちらも何気なく使う言葉ですが、そうか、本当だな、と考えさせられる標語です。
人生は、日めくりカレンダーのようなものだと、聞いたことがあります。
毎日、毎日、その日その日が終わっていき、一枚一枚めくっていく、はがしていくカレンダー。
日めくりカレンダーとして考えれば、そのカレンダーはだんだん薄く、減っていく一方ですが、
人生に引き寄せて味わえば、はがしていった、はがれていった、その一枚一枚は、ただの捨てものではありません。
人生の一日一日を過ごすなか、人生がだんだん薄く、すり減っていくというよりも、
その隣に、はがれていった一枚一枚が、積み重なっていきます。
その積み重ねは、一生懸命生きた、いのちの記録です。
その一枚一枚、全てのページに、多くのおかげ様があって、今日のページを歩みます。
そのことを味わえば、「歳を重ねる」って、良い表現だなと思います。
そして、実はその一枚一枚すべてのページに、阿弥陀さまがご一緒です。
そう考えると、この人生、仏さまと共に歩んだ積み重ね、
尊く、深い、命を歩んでいるんだと味わわせてもらいます。
称名相続
2023年1月
謹賀新年
本年も、よろしくお願い申し上げます。
阿弥陀さまは、私の人生に溶け込み、お念仏として私の身の上に現れ出てくださる仏さまです。
今年も一年、皆さまの歩みに、南無阿弥陀仏が共にありますことを念じております。
2022年12月
年末の 銀座を行けば もとはみな 赤ちゃんだった 人たちの群れ
京都の本願寺で勤めていた時のことです。
本願寺境内の休憩所で、受付に座っていると、中学生らしき修学旅行生、5人ほどがやって来ました。
トイレなどを利用した後、休憩所の中でお昼ご飯を食べ始めました。
真面目そうな生徒さんに交じって、一人、ちょっとヤンキーっぽい生徒さんがいました。
その生徒さんは、みんなから少し離れて、一人でご飯を食べていました。
なんとなく見ていると、真面目な感じの生徒さん達がコンビニのサンドイッチやおにぎりなどを食べています。
でも、そのヤンキーっぽい生徒さんは、ハンカチをほどいて、手作りお弁当を食べていました。
それをみて、少し、自分の偏見を反省です。
見た目で勝手に、その人の内面まで想像していましたが、
そうか、この子にもお母さんがいるんだよな、
きっと忙しい中、この子のためにと早起きし、
この子の笑顔を想像しながらお弁当を作り、
持たせてくださったんだな。
そう思うと、「勝手にヤンキーなんて思ってしまって、ごめんなさい」と、その子のお母さんに対して、申し訳ない思いがしました。
今月の言葉は、歌人の俵万智町さんの歌です。
今の世の中、他人を見ては批判してばかりいる風潮です。
でも、どのような人にも子供時代があって、
その人を「わが子よ、わが子よ」と、一生懸命、うれしそうに育ててきた親がいたはず。
そんなことを想像すると、その人を簡単に評価して、簡単に批判するのは申し訳ないな。
そんな目線が与えられるような気がします。
そして、どのような人にも親がいたように、どのような人にも、今、阿弥陀さまがご一緒です。
たとえ嫌な人がいたとしても、その人にも、その人を「わが子よ、わが子よ」と喚び続けている阿弥陀さまがいます。
そう思うと、その人のことも大切にしないと申し訳ないな、と、少〜し思えるような気がします。
称名相続
2022年11月
冷めてても、ぬくもり残る、お弁当
わが家の子供たちは、お母さんが作ってくれるお弁当を、とても喜びます。
子供たちのその気持ち、私自身もよく分かります。
なぜお弁当って、あんなにおいしいのでしょうか。
お弁当という食事スタイルが、良いのでしょうか。
屋外で食べるからおいしいのでしょうか。
食べる環境が、ワクワクした状況だから、つられておいしく感じるのでしょうか。
いろいろ考えられると思いますが、大きな理由の一つは、そのお弁当に、作った人の思いがいっぱいに込められてあるからではないでしょうか。
お母さんが作ったお弁当は、お母さんが、自分を想ってくれる思いが、具体的に形になったものです。
自分を想い、作ってくれた息遣いがあります。
おにぎり一つ一つ、卵焼き一巻き一巻きに、自分に真っ直ぐ向けられた愛情があります。
その事が分かるから、お弁当はおいしい。
おなかが満たされるだけではなく、心も愛情で満たされる。
だから余計においしいのではないでしょうか。
お弁当は、冷えるけれど、込められた思いは変わらない。
だから、お弁当は冷えていても、ぬくもりが残る。
だから、おいしい。
実は、南無阿弥陀仏の六字にも、阿弥陀さまの愛情がいっぱいに込められてあります。
私一人に真っ直ぐに向けられた思いがあります。
一人じゃないよ。わたしが一緒だよ。
その仏さまの思いを、お念仏で味わいます。
その仏さまの思いを、たのしく、うれしく、ありがたく、お寺のご法話で味わいます。
それが、とてもおいしいのです。
ぜひ、お寺に足を運んでみて下さい。
2022年10月
晴れた日は、枝が伸びる。
雨の日は、根が伸びる。
人生を、植物に譬えてみると、
枝という、人生の広がりは、目に見えない根っこに支えられる。
枝のない植物はあっても、根の無い植物はありません。
人生に於て、花が何も咲かない時には、根をのばす。
内面を深める。
そんなご縁をいただいている時なのかもしれません。
そんなことを考えていると、かつて目にした「元服」という作文が連想されました。
中学校三年生のお方の作文なのだそうです。
以下に紹介し、今月の言葉の味わいに代えます。
「元服」
ぼくは、今年3月、担任の先生からすすめられてA君と2人、○○高校を受験した。
○○高校は私立ではあるが、全国の優等生が集まってきている、いわゆる有名高校である。
担任の先生から、君たち2人なら絶対大丈夫だと思うと強くすすめられたのである。
ぼくらは得意であった。
父母も喜んでくれた。
先生や父母の期待を裏切ってはならないと、ぼくは猛烈に勉強した。
ところが、その入試で、A君は期待通りパスしたが、ぼくは落ちてしまった。
得意の絶頂から、奈落の底へ落ちてしまったのだ。
何回かの実力テストでは、いつもぼくがいちばんで、A君がそれに続いていた。
それだのに、そのぼくが落ちて、A君が通ったのだ。
誰の顔も見たくない、みじめな思い。
父母が、部屋にとじこもっているぼくのために、ぼくの好きなものを運んでくれても、優しいことばをかけてくれても、それが、よけいにしゃくにさわった。
何もかもたたきこわし、ひきちぎってやりたい怒りに燃えながら、ふとんの上に横たわっているとき、母がはいってきた。
「Aさんがきてくださったよ」と言う。
ぼくは言った。
「かあさん、ぼくは誰の顔も見たくないんだ。特に世界中でいちばん見たくない顔があるんだ。世界でいちばんいやな憎い顔があるんだ。だれの顔か、言わなくたってわかっているだろう。帰ってもらっておくれ」
母は言った。
「せっかく、わざわざきてくださっているのに、かあさんにはそんなこと言えないよ。あんたたちの友だちの関係って、そんなに薄情なものなの。ちょっとまちがえば、敵味方になってしまうようなうすっぺらいものなの。かあさんにはAさんを追い返すなんてできないよ、いやならいやでソッポを向いていなさいよ。そしたら帰られるだろうから」
といっておいて、母は出ていった。
入試に落ちたこのみじめさを、ぼくを追い越したことのない者に見下される。
こんな屈辱ってあるだろうかと思うと、ぼくは気が狂いそうだった。
2階に上がってくる足音が聞こえる。
ふとんをかぶってねているこんなみじめな姿なんか見せられるか。
胸を張って見すえてやろうと思って、ぼくは起きあがった。
戸があいた。
中学の3年間、A君がいつも着ていたくたびれた服のA君、涙をいっぱいためたくしゃくしゃの顔のA君。
「××君、ぼくだけが通ってしまって、ごめんね」
やっとそれだけ言って、両手で顔を覆い、かけおりるようにして階段を下りていった。
ぼくは、はずかしさでいっぱいになってしまった。
思いあがっていたぼく。
いつも、A君になんか負けないぞと、A君を見下していたぼく。
このぼくが合格して、A君が落ちたとして、ぼくはA君をたずねて、「ぼくだけが通ってしまって、ごめんね」と、泣いて慰めにいっただろうか。
「ざまあみろ」と、よけいに思いあがったに違いない自分に気がつくと、こんなぼくなんか、落ちるのが当然だ、と気がついた。
彼とは、人間のできが違うと気がついた。
通っていたら、どんなおそろしい、ひとりよがりの思いあがった人間になってしまったことだろう。
落ちるのが当然だった。
落ちてよかった。
ほんとうの人間にするために、天がぼくを落としてくれたんだ、と思うと、かなしいけれども、このかなしみを大切に出直そうと、決意みたいなものが湧いてくるのを感じた。
ぼくは、今まで、思うようになることだけが幸福だと考えてきた。
が、A君のおかげで、思うようにならないことのほうが、人生にとって、もっと大事なことなんだということを知った。
昔の人は15歳で元服したという。
ぼくも入試に落ちたおかげで、元服できた気がする。