2022年8月

親に死なれて、はじめて、親に出遇うこともある。

 先日、自分のメモ帳を整理していたら、
 何かで読んだであろう、誰かの手記が、以下のように残されていました。

 

 

 

 母が亡くなったときのこと。

 

 通夜、葬儀に、多くの人が来てくれた。
 家の中での母は知っていたが、
 家の外での母を知ることができた。
 母が、みんなからこんなにも愛されていたのかと知った。

 

 法事の時、親戚の集まりでお酒を飲んだ。
 親戚のおばちゃんたちが来て、母の話を聞かせてくれた。
 私を身ごもった時の様子。
 私が生まれた時の話。
 自分のことは後回し、すべて子供が優先だった。
 子供のために頭を下げ、子供のために生きていた。
 そんな話だった。

 

 きっと、私のことで悩みながら、私のことで喜びながら、となりで笑っていてくれたのだろう。
 涙が出た。
 知っていると思っていた母のことを、何も知らなかったと知らされた。
 知らない母に、たくさん出遇えた。

 

 あなたからもらったものはとても大きく、返せるものはとても少ない。

 

 

 

 心動かされ、メモしていた内容です。

 

 普段から顔を合わせ、話をしている間柄でも、
 相手のことを知っているつもりになっているだけで、
 知らない事ばかりです。

 

 ですが、その方が亡くなって、はじめて知らされることは、たくさんあるのではないでしょうか。

 

 8月は、お墓参りのご縁が多い時期です。
 亡きお方に手を合わせ、心を寄せる時間の中で、
 出遇っていける世界があるのではないでしょうか。

 

 南無阿弥陀仏

2022年7月

ココだけの話やけどな、と前置きされると、
耳がダンボになる

 今月の言葉は、どうでしょう。
 深くうなづいてしまいませんか。

 

 「ココだけの話やけどな」

 

 確かに、とても魅力的な響きを持つ言葉です。
 なぜなら、他では聞けない、得する、秘密の情報だと思ってしまうからです。

 

 損得の勘定は、私たちの根っからも根性、持ち分です。
 その感覚は、社会を生きていく上では非常に大切なものの考え方。
 自分の判断で、損得をハカリ、ものの良し悪し、人の好き嫌い、正義と悪のレッテルを張りながらやっている。
 それが私たちの暮らす生活です。

 

 それはもちろん大切なことですが、それが全てであるならば、それのみで歩んできた人生の最後には、一体何が残るのでしょうか。
 むなしい人生で終わってしまうのではないでしょうか。

 

 そんな私たちの性分を、仏さまは十分にご存知です。
 ですから、保ちやすい声のすがたで、南無阿弥陀仏とご一緒くださいます。

 

 お仏壇に手を合わせる人生を歩むと、人生の折々に、阿弥陀さまと一緒に歩んだという事実が与えられます。
 お仏壇のある生活。
 今は、それが何なのかピンとこなかったとしても、人生の夕暮れを迎えた時、自分の歩んだ道を振り返った時、どうでしょう。
 きっと、様々な思いが去来することでしょう。
 ある人は、「随分遠回りをした気もする」。
 ある人は、「無事に過ごせてよかった」。
 ある人は、「何の意味があったのだろう」。
 ある人は、「やり残しが多い人生だった」。

 

 ですが、最後に、「人生のどの場面にも、阿弥陀さまがご一緒の人生だった」。

 

 そう思えたなら、自分の歩んできた道が、知らず知らずのうちに、仏道となっていたと知らされるのではないでしょうか。
 自分の歩んだ道が、尊く荘厳される。
 人生そのものに、手を合わせていけるような気がします。

 

 今日も、南無阿弥陀仏の仏さまが、私の気分に関係なく、声となってご一緒くださいます。
 その事が、すでに大きなお心の中に包まれていることなのかもしれません。

 

 称名相続

2022年6月

相手にきれいな花を持たせる人だけが、
きれいな花を見ることができる。

 今月は、相手を大切にする心をあらわす言葉です。

 

 「相手にきれいな花を持たせる人だけが、きれいな花を見ることができる。」

 

 大きな花束といった方が、分かりやすいかもしれません。
 自分が大きな花束を持っていては、大きすぎて、近すぎて、全体をきちんと愛でることができないかもしれません。
 ですが、その花束を、相手に渡した時に、その花束全体の美しさを眺めることができる。
 そんな意味合いがあると思います。

 

 ですが、この言葉の意味合いは、それだけではないでしょう。

 

 自分一人で花の美しさを独り占めしていると、その花の美しさしか、喜ぶことができません。
 ですが、その花を相手に渡せば、花の美しさだけではなく、その人の笑顔も、一緒に喜ぶことができます。
 自分の笑顔は、自分では見えませんが、相手の笑顔は、よく見えますし、相手のその笑顔は、また私を笑顔にしてくれることだってあります。

 

 そういう意味では、相手に渡す花と、相手が見せてくれる花は、少し意味合いに違いがあるのかもしれません。

 

 相手に渡した花に、もっと違う値打ちがひっついて、花だけでなく、相手ごと喜べる。
 もしも、私がある出来事を一人喜んでいるだけなら、それだけの事。
 でも、すぐそばに、同じことで喜べる人がいれば、その人の笑顔という花も一緒に喜べます。

 

 よろこび合い、感謝し合いながら歩んでいける人がいれば、その人の笑顔も喜びながら歩んでいける。

 

 なるほど、深い言葉です。

 

 すると、自然と、あの人は喜んでくれるだろうか、あの人は悲しむかもしれない。
 そんな「いのちの共感」を感じながら、人生を歩むことになるのかもしれません。
 そんな人生を歩むことができれば、きっとその人生、一歩一歩が丁寧な歩みになるのではないでしょうか。

 

 同じことによろこび、同じことを悲しめる人が隣にいると、人生は豊かになる。
 たった一人の人生が、二人連れに人生になっていく。

 

 阿弥陀さまは、私と同じ歩調で、同じ景色を見、同じように感じて下さりながら、この人生をご一緒くださる仏さまです。

 

 その仏さまのお仏壇に、お花をお供えする人生。

 

 ありがたい歩みです。

 

 称名相続

2022年5月

絶望の淵で、おなかがグ〜っとなった。
いのちが、生きようよ、生きようよ、と言ってくれた。

私たちは、自分で生きていると思っていますが、果たしてそうだろうか。。。

 

そんなことを考えさせてくれる言葉です。

 

あるテレビ番組で、お坊さんが取材を受けておられました。

 

そのお坊さんが、僧侶を目指すきっかけとなった経験を語っておられました。

 

私は、お寺と関係のない家庭で生きてきました。
まわりに認めてもらいたくて、いい子であろうと、一生懸命努力しました。
勉強を頑張り、受験もしました。
新しい環境には、勉強のできる人がたくさんいて、もっと頑張らねばと思いました。
頑張って、頑張って、頑張って、いい会社に入社しました。
ですがある日、ある時、仕事のミスがきっかけで、緊張の糸が切れました。
何のために生きて来たのか、本当に分からなくなりました。
生きていても仕方ないと思い、いのちを絶とうと、ビルの屋上にのぼりました。
その時、自分の意志とは関係なく、手が、足が、ぶるぶると震えたのです。
その時に、ハッとしました。
驚きました。
そうか。
手よ。。。
足よ。。。
おまえ達は、まだ、生きていたいのか。
そうか、そうか、かわいそうなことをした。
頭が絶望しただけなのに、それに付き合わせようとしてしまった。
怖かったな。すまなかったな。
私が、お前たち(私自身)を、認めてあげないといけないよな。
私は、お前たち(私自身)のために、生きていこう。
本当に、そう思えました。
それがきっかけで、僧侶になりました。

 

そんなお話でした。
何のテレビ番組だったかは覚えていませんが、すごい話だったので、印象に残っています。

 

私たちは、なぜ生きているのか。

 

この疑問に対しては、色んな答え方があると思います。

 

でも、「わからない」、というのも、一つの立派な答えです。

 

「生きている」のではなく、「生かされている」。
頼みもしないのに、手が、足が、目が、心臓が、今日も一生懸命はたらいてくれる。
おかげで今日も、生きている。
「生きる」という事は、自分の意志ではないのだ。
「生かされている」のだ。
だとすれば、頭で勝手に生きる意味を出すのは、すこし傲慢かもしれない。

 

そんな目線がある様に思います。

 

私を、謙虚に見つめる。
私のいのちを、少し遠めに眺め見る。
そこに、私を生かすはたらきを見ていくことができるのかもしれません。

 

さきのお坊さんは、それが知りたくてお坊さんになったとおっしゃっていました。

 

そのお坊さんは、その後、きっと、仏さまのおはたらきをご自身の身の上に聞いていかれたと思います。
どう思われたでしょう。
お聞きしていないのでわかりませんが、私なりに、阿弥陀さまのおはたらきを重ね合わせれば、次のようになるのかもしれません。

 

絶望の淵で、お念仏をしてみた。
仏さまが、一緒だよ、一緒だよ、と言ってくれた。

 

有り難いことです。

 

称名相続

2022年4月

三分咲きでも、散り際でも、それぞれの良さがある。
見たその時が、最高の桜なのだ。

4月は、出会いと別れの季節です。
その季節に咲く花、桜。

 

日本人は、桜が大好きだと聞かされますが、やっぱり私も日本人。
美しいな〜〜、と思います。

 

ある仏教の先生が、こんな話を聞かせてくださいました。

 

その先生、お若い時に、宗教学を学ぶために、海外の大学に留学しておられたそうです。
その留学生活で一番感じたことは、寂しさだったとおっしゃっていました。
未だ英語も満足に扱えない中での留学でした。
周りはキリスト教徒のお方ばかり。
友達らしい友達もできず、勉強しようと机に向っては、宗教学どころか、まず英語の勉強からせねばならない。
周りに無理を言い、時間とお金を使って留学までして、自分はいったい何をしているんだろうか。
虚しさばかりを感じながら過ごしておられました。
その時、部屋の中から、ふと窓の外を見ると、一本の桜。
一生懸命に、たくさんの花をつけ、それが風に吹かれて、ハラハラと散っていた。
その姿を見た時、涙があふれて止まらなくなったそうです。
「そうか・・・。
 お前も独り、日本から来たのか。
 お前は、エライな。
 誰に見られるでもなく、褒められるでもない。
 それでも一生懸命に花を咲かせて、散っていくのか。
 ・・・そうだったな。
 場所なんて関係ないよな。
 今できることを、精一杯、頑張るんだよな。
 励ましてくれて、ありがとう。
 お前は、私の、友達だ。」
名も無き一本の桜が、私を支えてくれました。

 

そんな話を聞かせてくださいました。

 

桜は、いいですね。

 

三分咲き、満開、散り際、それぞれに、その時にしかないメッセージをくれます。
見ている側に合わせ、いろんな顔を見せてくれます。
その表情一つ一つに、そのひと時ならではの、愛おしさがあります。

 

4月は、出会いと別れの季節です。
それぞれの人生にある、寂しさや、愛おしさを思います。

 

称名相続

2022年3月

すべての者は暴力におびえる。
すべての者は死を怖れる。
己が身に引き比べて、殺してはならぬ。
殺さしめてはならぬ。

今、ウクライナとロシアが戦闘状態にあります。

 

そのニュースを聞き、映像を見るたび、『法句経』の言葉が思い浮かびます。

 

すべての者は暴力におびえる。
すべての者は死を怖れる。
己が身に引き比べて、殺してはならぬ。
殺さしめてはならぬ。

 

『法句経』は、『ダンマパダ』ともいわれる、最も古い経典の一つです。

 

仏さまの言葉は実語ですから、いつの時代であっても、どの様な場所であっても、真理です。

 

たとえ何年経とうとも、人は暴力におびえ、死を怖れる。

 

だからこそ、、、と様々な経典が編纂されていく、人間苦をあらわすスタートのような言葉です。

 

その言葉が、2,500年経った現代においても、そのまま通用してしまうという人間の悲しさ。

 

環境さえ整えば、何でもしでかしてしまう、弱い存在だとは聞いていますが、
争いがあったとしても、暴力以外の方法で解決できないものなのだろうかと、考えてしまいます。

 

仏教では、「涅槃寂静」を説きます。
その「寂静」の原語は、「シャーンティ」といい、「安穏」や「平和」とも訳される言葉だそうです。

 

「世のなか安穏なれ」と示された宗祖のお言葉が、胸に迫ります。

 

合掌

2022年2月

新しいものは すぐに古くなるが
真に古いものは いつまでも新しい

東京スカイツリーという、とても高い建物があります。
このスカイツリーを建てるにあたって参考にされたのは、法隆寺の五重塔だそうです。
五重塔は、1,300年以上前に建てられたもので、世界最古の木造建築といわれているそうです。
その間、日本では、マグニチュード7クラスの地震が40回以上あったといわれますが、そのすべてを耐え抜いてきました。

 

なぜ、そんなに古い建物が、今の私たちに新しい内容を示唆してくれるのか。

 

それは、その技術が「ホンモノ」だったからです。

 

ホンモノかどうか、見ただけでは分かりません。
ですが、歴史が、それを証明してくれます。

 

ホンモノは、いつまでも残ります。
どの時代にも決して壊れず、どの時代にも矛盾なく応じる。
そして、どの時代にも、新しい何ものかを与えてくれる。
それが、ホンモノということではないでしょうか。

 

少し前ですが、ある友人と食事をしていました。
その友人は、仏教を、知識としては知っていましたが、信じ、よろこび、支えとする、という程ではなかったようでした。
その友人の前で、阿弥陀さまの話をした時、驚いた顔で私に言うのです。

 

  え?
  「南無阿弥陀仏」って、阿弥陀さまなの?
  この声が、阿弥陀さま??
  新しいっ!!

 

本当に、そう言ったのです。

 

もちろん2,500年前のお経の内容ですから、新しいわけがありません。
でも、その友人には、新しい何ものかを与えてくれたのだと思うのです。
それはなぜか。

 

仏説が、ホンモノだからです。

 

仏語とは、実語、真実の言葉です。
どの時代にも、決して壊れず、どの時代にも矛盾なく応じて、多くの仏教徒の支えとなり、救いとなる。
それが、「南無阿弥陀仏」というお念仏ではなかったかと思うのです。

 

時代は、どんどん進みます。
ついて行けない程のスピードに、追い立てられるような焦燥感を感じます。

 

ですが、仏さまをあおぐ中には、少し違った時間が流れます。

 

いつまでも変わらない、仏説という秩序の中に、ホッとした居心地を過ごさせていただきます。

 

称名相続

2022年1月

悲喜こもごもの新年
あけまして、南無阿弥陀仏

今日の日を、どの様にお迎えでしょうか。

 

うれしさの中で。

 

平穏の中で。

 

寂しさの中で。

 

悲しみの中で。

 

不安の中で。

 

人生模様が人それぞれである以上、今日の一日も、人それぞれです。

 

仏さまからみれば世界は一つかもしれません。

 

ですが、人間の側から言えば、私が見ている世界は、私だけの世界で、他の誰も、その世界に入って来ては、くれません。

 

一人一人に、一人一人の世界があり、たった独りで、その中を生きています。

 

そして、その、私だけの世界の中に、阿弥陀さまはご一緒です。

 

私の日常に溶け込んでくださって、南無阿弥陀仏でご一緒下さる仏さまです。

 

そのやさしい眼差しの中、この一年も、丁寧に歩んで行ければと思っております。

 

本年も、お世話になります。

 

称名相続

2021年12月

生老病死が苦しみになるのではない。
そこに意味が見出せないことが、苦しみになる。

上の言葉は、ある布教使の先生が、お説教の中で教えてくださった言葉です。

 

私の命の上には、「生老病死」という苦しみがある。

 

このことは、今から2,500年前、お釈迦様という仏さまが教えてくださいました。

 

「生老病死」、「生まれること、老いること、病になること、死を迎えること」。

 

これらはまったく自由にならず、避けられない内容として、私が一人、背負っていかねばならない事実です。

 

そして、その人間のあり様は、2,500年経った今でも、何一つ変わりません。

 

だからこそ、その解決となる仏さまのお救いも、2,500年間、何一つ変わりません。

 

浄土三部経、「仏説無量寿経」、「仏説観無量寿経」、「仏説阿弥陀経」には、説かれます。

 

『阿弥陀さまという仏さまが、あなたのいのちにご一緒です。南無阿弥陀仏でご一緒です。』

 

このことを聞かせていただくと、私の人生は、いつも阿弥陀さまと二人三脚です。

 

どの様な暮らしぶりの上にも、阿弥陀様がご一緒の人生です。

 

お念仏と共に、歩んで行く人生です。

 

その人生は、命終って仏さまになる道であり、人生そのままが仏道になります。

 

何気ない日暮しに、仏道という意味が与えられます。

 

お浄土への歩みとして、仏さまにお飾り(荘厳)された人生です。

 

いつの日か、人生の最後の日を迎え、その人生を振り返る日が来るでしょう。
その時に、何を思えるでしょうか。

 

「いい人生だったな。」

 

「つらいこと、苦しいことの方が多い人生だったな。」

 

「何の意味もない人生だった。むなしい。」

 

いろいろな思いが、浮かんでは消え、浮かんでは消え、するでしょう。

 

でも、どの様な人生であっても、阿弥陀さまは、お念仏の人生を、褒めてくださいます。

 

『仏と共に歩んだ、尊い人生だったよ。大変だったかもしれない。でも、立派だったよ』

 

そのことを聞かせていただいて、思えるのではないでしょうか。

 

「そうだったな。私の人生のどこを押さえても、仏さまと歩んだ仏道だったんだな。
生まれること、老いること、病をいただいたこと、命を終わっていくこと。
自分では、よくわからないけれど、仏さまが褒めてくださるんだったら、これでよかったのかもしれないな」

 

私の人生に、うなずきを与えんがために、阿弥陀様は、今、ご一緒下さっているのかもしれません。

 

その人生の上には、意味のない出来事はありません。

 

どの様な人生模様が描かれてあったとしても、その模様の中には、南無阿弥陀仏が紡(つむ)がれてあります。

 

仏さまと成るために歩んだ人生だったと、尊い人生模様が編み上げられます。

 

人生模様は人それぞれですが、何と尊い人生であったことかと、我が人生に、手を合わせていける。

 

そんな日暮しを、今日も南無阿弥陀仏と紡(つむ)いでまいります。

 

称名相続

【住 職】 園 淵 和 夫  【若 院】 園 淵 和 貴
【住 所】 〒555−0001 大阪市西淀川区佃1−11−3
【電 話】 06 ( 6471 ) 6330
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