2025年3月

みんな地球を救いたがる。
でも、誰もおふくろの皿洗いを手伝おうとはしない。

パトリック・オロークさんという作家さんの言葉だそうです。

 

この言葉を見た時、本当にハッとさせられました。

 

見てくださる皆さんにも、ハッとしていただきたくてのチョイスです。

 

うちの7才の息子は、よくお風呂の掃除をしてくれます。
気分が乗っているときは勿論、乗り気でない時でも、こっちがお願いすると、「は〜い」。
二つ返事です。
お掃除の後、「ありがとう」を伝えると、何も言わずに「ニコッ」です。
有難いのはもちろんですが、もはやその笑顔を尊くすら感じます。

 

私自身も幼いころ、母の手伝いが好きでした。
どんな感情だったのかは覚えていませんが、母が喜んでくれることが、嬉しかった気がします。

 

もしも、世界中の人々が、本当に、素朴に、隣にいる人が喜んでくれることを、喜びの中で実践することができれば、世界はどれほど変わるでしょうか。

 

仏さまは教えてくださいました。
その完成形を、「仏」と言うんだよ、と。

 

今は仏さまではありませんから、その実現は不可能ですが、
自分の手の届く範囲で、身の丈に合ったことを、コツコツ実践できれば、それは十分にスゴイことです。

 

誰に誉められることもないかもしれません。
でも、仏さまだけはご存知です。

 

赤ちゃんのつたないよちよち歩きを、お母さんが両手をたたいて喜んでくれるように、
私のつたない実践を、阿弥陀さまは両手をたたいて喜んでくださるのではないでしょうか。

 

よちよち歩きででも、地に足を付けた生活を送っていきたい。
そんなことを考えさせられる言葉でした。

 

称名相続

2025年2月

グーみたいな奴がいて
チョキみたいな奴もいて
パーみたいな奴もいる。
誰が一番強いか、答えを知っている奴はいるか。

今月のこの言葉は、「宇宙兄弟」という漫画のセリフだそうです。

 

じゃんけんで、グー、チョキ、パー、どれが強いか。
それはその時々の話であって、そこに良し悪しは有りません。
ですが、そこに良し悪しを見てしまうのが、私たちのものの見方かもしれません。

 

ある哲学の本に書いてありましたが、
人間は、周りのものを道具として考えるクセが、あるんだそうです。
そしてそれは、当然のことなんだ、と。

 

大昔、私たちがまだ人間ともサルとも区別がつかないような時代、
二足歩行で両手が空いて、道具が使えるようになりました。

 

この石は、どう使えば便利か。
この枝は、どう使えば便利か。

 

この成功体験が、今の人類を支えています。

 

だから、周りのものを道具として利用しようとする、進化を勝ち残ってきたこの方程式が、
私たちの奥深くまで根付いているそうです。

 

そして、こう考え始めるそうです。

 

この人間は、どう使えば便利か。
どういう人間が、都合がいいのか。
どういう人間が、都合が悪いのか。
この人間は、価値のある人間。
この人間は、価値のない人間。

 

そしてそのモノサシは、自分自身にも向きます。

 

私は価値がある人間なのか。
どうすれば自らの価値を引き上げることができるのか。
こんな自分には、もう生きていく値打ちがないのではないか。

 

阿弥陀さまは、おっしゃいます。
どのような者にも、100点の値打ちがあるよ。
どのような人生でも、100点の人生だったんだ。
そのいのち、尊いよ。
私はあなたが、大事だよ。

 

そのことを告げてくださるのが、この口に出るお念仏でした。

 

グーが、グーのまま輝く。
チョキは、チョキのまま、パーはパーのまま輝く。

 

そんな阿弥陀さまのまなざしを連想するような、「宇宙兄弟」の言葉でした。

 

称名相続

2025年1月

極楽は本来親の里  
親の里こそわしが里
南無阿弥陀仏と申すおさとり
浅原才市

皆さまは、「ふるさと」と聞くと、どのような情景を思われますか。

 

私は、童謡の「ふるさと」からの連想で、
日本昔話に出てくるような、田んぼの風景の中にあるかやぶきの家、
って感じの風景を思い起こしますが、
「自分のふるさと」、と言われると、自分の実家を思います。

 

きっとその人その人によって思い起こされる風景は様々だと思いますが、
どのような情景であれ、居心地の良い、ホッとできる、昔なつかしい風景が、そこにあるのではないでしょうか。

 

昔、ある新聞記事で、こんな内容を目にしました。
「居心地というものは、その場所にいる人達が、自分をどう思っているかに依る。」
なるほどな、と思いました。

 

自分のことをよく思っていない人たち、否定してくるような人たちの中には、居場所がありません。
反対に、自分を肯定的に捉えてくれる人たちの中には、安心があります。

 

その一つの例が、「ふるさと」ではないでしょうか。

 

幼かった懐かしいあの頃、親がいて家族がいて、ワイワイガヤガヤしながら過ごしたあの「全体」が、「ふるさと」です。
そこには、確かな居場所がありました。

 

どのような状況でも、手土産などなくとも、帰ることのできる場所でした。
夜遅くとも、灯りがついている場所でした。
大好きな父、母が、「おかえり」と迎えてくれる、安心の場所でした。

 

お浄土は、「ふるさと」です。

 

いつ、どのようなご縁で命終えるかは選べませんが、いつ、どのような状況でも、帰ることのできる場所でした。
実家の明りがついているような、あたたかな場所でした。
先に行ったお方々が、「おかえり」と迎えてくれる、安心の場所でした。

 

 

未だ行ったことはありませんが、阿弥陀さまが、「さあ、帰ろうね」と言ってくださるから、「はい、帰ります」と言っていける、いのちのふるさと。
その安心が、いのちの先にご用意されてあります。
一人で行くのではありません。
南無阿弥陀仏がご一緒です。

 

本年も、阿弥陀さまがご一緒の一年です。

 

称名相続

2024年12月

当たり前と思っていたことが、そうでなかったと感動した時、人生は輝く

ブラックジャックによろしく、という漫画があります。

 

手塚治虫の医療漫画「ブラックジャック」を意識して書かれた漫画だと思い、手に取ってみましたが、どうやら作中の内容とは直接しないようでした。
ですが、色々考えさせられる、本当に面白い漫画です。

 

その中に、末期の癌患者のお方の物語があります。

 

癌が判明したのは、40代のお母さん。
サラリーマンのご主人と、小学生の、二人のお子さんがおられます。

 

当時はまだ、がんの告知はしないのが当然の時代。
ですが、未承認ではあるけれど、最新の抗がん剤を使用するために、告知がなされます。

 

担当医から、末期がんであること、余命一か月半であることが、告知されます。

 

そのお母さんは、激しく動揺し、怒り、絶望、希望、むなしさ、様々な感情の入り混じる中、病院とは距離を置かれます。

 

ご主人と二人、他の病院でセカンドオピニオンを聞いたり、民間療法を見に行ったりする日々。

 

そんななか、ご主人と二人の車中です。
ラジオから音楽が流れてきます。

 

♪明日があるさ、明日がある。
♪若い僕には夢がある。
♪いつかきっと、いつかきっと、わかってくれるだろう。
♪明日がある〜。明日がある〜。明日があ〜る〜さ〜。

 

それを聞いたお母さんがおっしゃいます。

 

不思議ね。前にテレビで聞いた時には楽しい歌だったのに。
ねえあなた。絶望ってすごいのね。私知らなかった。絶望って、もっと・・暗くて色のないものだと思ってた。
まぶしいのね・・・絶望って。
いつもの景色を、まぶしく見せるのね。

 

とても印象的な場面でした。

 

この日常が、今日で最期かもしれない。
そう思うと、何気ない日常こそが宝物だったと輝く。
本当だな、と思いました。

 

私たちの日常には、本当は、当たり前なんてありません。
聞いたことはある。
頭ではわかっている。
でも、その事を実感しながら生きていくことは、非常に難しいと思います。

 

だからこそ、お仏壇に向かったり、お墓参りをしたり、お寺に足を運ぶことが、大切なのかもしれません。

 

命の終わりに接すれば、何気ない日常が輝く。
命の終わりに接することは、難しいけれど、懐かしいお方々と出会いなおしていけるお念仏や、倶会一処のお浄土であれば、接していくことはそんなに難しいことではありません。

 

お念仏の中に、お浄土の中に、命の終わりに対する光を見ていくだけでなく、何気ない日常にも輝きを見ていく。

 

そんなことを考えさせられる、今月の言葉です。

 

称名相続

2024年10月

引く足も、称ふる口も、合わす手も、
弥陀願力の、不思議なりけり

今月11月の1日、西法寺の住職継職法要をお勤めさせていただきました。
多くのお方々がお参りくださり、本当に有難いご勝縁となりました。

 

西法寺に、浄土真宗のお法りが伝わって以来、ざっと500年。
多くのお方々が、南無阿弥陀仏を慶んできてくださった歴史、そのものです。

 

南無阿弥陀仏というのは、不思議です。

 

日常生活、人間同士のコミュニケーションとして、何の使い道もない南無阿弥陀仏が、今日、こうして私の口からこぼれてくる。

 

2,500年前、お釈迦さまの口から出たのと同じ言葉、同じ響きで、ナモアミダブツが、今日までこうして伝えられ、慶ばれ続けているというのは、本当に不思議です。

 

南無阿弥陀仏は、人間の言葉ではありません。

 

阿弥陀さまの、お悟りむき出しの言葉、阿弥陀さまそのものが、名前のすがたとなった言葉です。

 

人間の言葉であれば、人間が伝えますが、仏さまの言葉は、仏さまが伝えます。

 

日常生活が忙しいにもかかわらず、今日こうして仏さまの前に私を引っ張ってきてくれる足、口に称えるはずのない仏語を称えてくれる口、普段しない合掌をしてくれているこの手、すべてが、阿弥陀さまのおはたらきでした。

 

阿弥陀さま、ありがとうございます。

 

おかげで、この度の人生、お念仏の人生となりました。
命終えたら、お浄土という仏さまの国、なつかしいお方々とまた会える世界に参ります。

 

ご歴代ご住職様方、有難うございます。
その時代、その時代で、お寺を支えてきてくださった多くのご門徒さま方、有難うございます。

 

このご法義が、正しく伝わっていくように、また弘く慶ばれていくように、誠心誠意、つとめさせていただきます。

 

今後も、何卒、よろしくお願い申し上げます。

 

称名相続

2024年10月

秋の風は一つだけれど、虫はそれぞれの声で鳴く。
阿弥陀さまのお救いは一つだけれど、人はそれぞれのお念仏をよろこぶ。

朝夕の過ごしやすさに、やっと秋の気配を探ることができるようになりました。

 

虫の声も、やっと秋らしく響きます。

 

秋になると、虫が鳴き始めます。
秋の風が、虫に鳴くよう催促しているのかもしれません。

 

秋の風は、一つです。
ですが、それを受けて鳴く虫の声は、その虫々によって様々です。
ある虫は、大きな声で、
ある虫は、美しい声で、
またある虫は、声を出さないままに、
秋のはたらきをその身に受けて、その慶びを表現します。

 

今、私の口から出るお念仏も、同じです。
阿弥陀さまのおはたらきが、私にお念仏するようご催促されています。

 

阿弥陀さまのおはたらきは、一つです。
ですが、それを受けてお念仏する声は、その人その人で様々です。
ある人は、大きな声で、
ある人は、美しい声で、
またある人は、声を出さないままに、
阿弥陀さまのおはたらきをその身いっぱいに受けて、その慶びが身の上に表現されます。

 

それぞれが、それぞれの境遇の中で慶べるようなお救いです。

 

どのような虫の上にも、秋の訪れがあるように、
どのような人の上にも、阿弥陀さまがご一緒です。

 

南無阿弥陀仏で、ご一緒です。

 

称名相続

2024年9月

思い出の 一つのようで そのままに
 しておく麦わら 帽子のへこみ

今年ももう9月。
暦の上では、秋です。
蒸し暑い日々の中にも、朝夕に、秋の風を感じます。

 

ということで、今月は、夏の終わりを感じる句です。

 

様々な立場から、様々な情景が目に浮かぶ詩ですが、この度は、子を想う親の目線で窺います。

 

私も、一人の親として、この夏に、子ども達にどんな思い出を作ってあげることが出来たかと、しみじみ思います。

 

テレビゲームとユーチューブだけの夏休みにならないよう、色々努力をするわけです。

 

たまには遠くに出かけたりもするのですが、もしもその帰り道、
車の中で、爆睡している子ども達を見ると、頑張ってよかったなと思います。

 

子どもは、その一瞬一瞬を精一杯に生きるので、どのような夏を過ごしたか、すぐに忘れてしまうかもしれません。

 

ですが、親の側は、色々考えますし、しばらくは覚えているのではないでしょうか。

 

その時々の子どもの姿を、愛すべき景色として、目に焼き付けるのではないでしょうか。

 

たとえ、何気なくすごす時間であっても、テレビゲームとユーチューブの時間でも、親としては、様々な想いと共に、その瞬間を大切にしたいと思うのです。

 

ですがそれは、阿弥陀さまのまなざし、そのものとも言えます。

 

親が、子どものすがたを、かけがえのない大切な瞬間として眺めるように、阿弥陀さまは、私たちの日暮らしをご覧くださっています。

 

何気ない日々であっても、何かを頑張った時間であっても、阿弥陀さまは、同じように、かけがえのない瞬間として、万感の想いを持ってご一緒です。

 

どうでしょう、皆さま。
この夏を振り返ってみて、どのようにお過ごしだったでしょうか。

 

様々な日々があったでしょう。
様々な過ごし方があったと思います。

 

でも、どのような夏であっても、阿弥陀さまがご一緒の夏でした。

 

阿弥陀さまと一緒に、かけがえのない命を過ごした時間でした。

 

思い出の 一つのようで そのままに
 しておく麦わら 帽子のへこみ

 

何気ない帽子のへこみ一つにも、かけがえのない時間、思い出があった。

 

そんな親のまなざし、阿弥陀さまのまなざしを教えてくれる、素敵な詩だなと思いました。

 

称名相続

2024年8月

叱られた日も懐かしや墓参り

今年の8月は、オリンピック、甲子園、様々ありますが、最大の仏教行事であるお盆の季節でもあります。

 

お休みを利用して、お墓参りをなさるお方も多いのではないでしょうか。

 

お墓を前にすると、独り言が独り言でなくなります。

 

先に往かれた懐かしいお方と、声なき声、言葉無き言葉で会話ができる。

 

忙しい日常の手を止めて、わが命の足元を確認する。

 

当たり前の時間を過ごしているのではなく、多くのお方々に見守られ、支えられて過ごす日常であったことを確認する。

 

そんな大切な時間が流れるのが、8月ではないかと感じます。

 

称名相続

2024年7月

蹴とばされ、今朝もやっぱり蹴とばされ 
それでも 毛布は 愛でできてる

ある短歌集で詠まれていた短歌です。

 

夜のうちに、何度も何度も毛布を蹴とばしている。
朝、目が覚めると、蹴とばされた毛布が、ふとんの足元に縮こまっている。
そんな光景を、何度も見てきました。

 

そうですよね。
夜、無意識に、毛布を蹴とばしてしまうのは、私だけじゃないはずです。

 

そしてそれは、一度や二度のことではなく、何十回、何百回もあったのではないでしょうか。

 

でも、毛布は、どうでしょう。

 

それに凝りて、もう嫌だ、とはなりません。

 

もう包み込んでくれなくなるのか、もう温めてくれなくなるのか。
そうではありません。

 

次の日も、また次の日も、夜になると包んでくれて、温めてくれる。
何とも言えない安らぎを、いつも私に与えてくれます。

 

何でもない日常の一場面を、毛布を主人公として切り取った、毛布が主人公の眼差しを与えてくれる、すばらしい短歌だと思いました。

 

毛布は、愛でできている。

 

そうかもしれません。

 

今日もあなたを温めるよ。
蹴とばされてもかまわない。
どうか一緒にいさせてね。
どうか温めさせてね、という、どこか控えめで、でも真っ直ぐな、そんな思いを感じさせてくれます。

 

仏さまが、南無阿弥陀仏でご一緒くださるお心を、思わずにはいられませんでした。

 

南無阿弥陀仏で届いてくださっていた阿弥陀さまを、何度も振り払い、蹴とばしてきた私を、何事もなかったように温めてくださる仏さまです。

 

今日も、阿弥陀さまに包まれ、温められながら、丁寧な歩みを重ねていきたいと思います。

 

称名相続

2024年6月

あなたは、過去のあなたがタスキをつないだアンカーである。

ネット上で見かけた言葉ですが、どうでしょう。

 

なるほど、本当だな〜と、しばらく考えてしまいました。

 

お寺の掲示板の前で、足を止め、じっと見てくださっている人を見かけます。
簡単で分かりやすい言葉もいいけれど、こういうちょっと考えさせられる言葉もいいものです。

 

簡単に言えば、「自業自得」、「因果応報」でも言えそうです。
ですが、それよりも、もう少し前向きな響きがあるように感じました。

 

思い返せば、この度の人生、色んなことがありました。

 

泣いたこと、笑ったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと。

 

一人の時もあれば、隣に大切な人がそばに居てくれたこともありました。

 

その全部が、ぎゅっと詰まっているのが、今の私です。

 

そのことを、しみじみ思いますと、どうでしょう。
そうか、だったら、あの時のあの気持ち、あの想い、その全部を胸に、今日という日を大切に歩んでいこう。

 

そんなことばなのかな〜と感じました。

 

もちろん、この度の人生だけのことではありません。

 

私たちは、様々な命を、何度も何度も、生まれ変わり、死に変わりしてきた命なのだそうです。

 

それら全部を振り返ることはできませんが、阿弥陀さまは、その全部をご存知です。

 

ご存知のその上で、今もご一緒くださって、今日の私を支えてくださいます。

 

業をタスキとし、過去の私がつないできたリレーです。
その歩みを、今日もご一緒くださいます。

 

阿弥陀さまに包まれ、歩んできたこの人生、これからも、その慈しみの中、温められながら、丁寧な歩みを重ねていきたいと感じます。

 

称名相続

【住 職】 園 淵 和 貴  【前住職】 園 淵 和 夫
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