2020年9月

ひとりひとりの子どもの背後に「親」がある。
子どもは「願われている存在」である。

どのような子どもであれ、その子の背後には、その子を「わが子よ」と喚(よ)ぶ親がいます。
親は、いつから子どもを喚び始めるのでしょうか。
それはきっと、生まれた時からではなく、そのずっと前、その子がおなかに宿った時から、「わが子よ、わが子よ」と喚ぶのではないかと思います。

 

「わが子よ」と喚ぶのは、親の名のりです。
どんなにやんちゃな子であっても、その子をどんなに叱った日であっても、決して捨てず、「それでもあなたが大事だよ」。
そう告げていく存在を、「親」と呼ぶのかもしれません。
どの様な子どもであっても、その子のいのちの上には、親の一生懸命が宿っています。
生まれた瞬間から、いのち宿った瞬間から、そのいのちの上には、大きな願いがかけられています。

 

 ひとりひとりの子どのも背後に「親」がある。
 子どもは「願われている存在」である。

 

この言葉をご覧になったとき、どの「子ども」を思い浮かべるでしょうか。
自分の子ども。親戚の子ども。ご近所さんや、友人の子どもなど、思い浮かべる姿は様々ですが、他でもない、私自身も、一人の子どもです。
親亡きお方であっても、親の子どもだったはずです。

 

この頭を撫でてくれた、親がいました。
泣く私を抱き寄せて、涙をぬぐってくれた、親がいました。
夕暮れに、この手を引いて、一緒に歩いてくれた、親がいました。

 

このいのちには、わが親の、一生懸命が宿っています。
その一生懸命に支えられ、今日まで来たのではなかったでしょうか。

 

今、どのような身であっても、変わらず私を、「わが子よ」と、喚んでくださる仏さまがいます。
その仏さまは、たとえ私が、年を重ね、知り合いが減り、故郷を離れねばならなくなったとしても、「帰るいのちの故郷があるよ。ともに歩もう」と、人生の夕暮れを、手を引いて、一緒に歩んでくださる、声の仏さまです。

 

阿弥陀さまは、今日も私の口を借り、南無阿弥陀仏、と喚んでくださいます。
「さみしくなったらお念仏をしてね。ほら、ひとりじゃない、ひとりじゃない。あなたのいのちの内側に、いつでも私は一緒だよ。」
わが身の上に、大きな願いがかけられてある。
そのことを胸に、今日を歩んでまいります。

2020年8月

往きしひと 皆この我に還り来て 南無阿弥陀仏と 称えさせます

日本人の生活習慣の中で最大のものは、お正月とお盆だと言われています。
そのお盆とは、仏教の行事です。
例年であれば、西法寺でも「お盆の法要」をお勤めしていましたが、今年は、新型コロナウイルス感染症の影響により、中止となりました。
本当に残念です。
ですが、せめて掲示板では、お盆を思える言葉を味わいたいと思います。

 

浄土真宗のご本尊は、阿弥陀様という仏さまです。
この阿弥陀様は、遠くにおられる仏さまではなく、今、「南無阿弥陀仏」のお姿となって、私の身に満ち満ちてくださる仏さまです。
そして、満ち満ちるだけではなくて、そのことを知らせるために、「南無阿弥陀仏」のお姿のままで、この口から、わざわざこぼれ出てくださる仏さまです。
その、こぼれ出てくださる「南無阿弥陀仏」が、お念仏です。
ですので、お念仏すれば、いつでもどこでも、阿弥陀さまがご一緒下さることを確認できます。

 

その阿弥陀様のおはたらきで、私は、いのち終わった後、お浄土へ生まれます。
お浄土へ生まれた後、どうするか。
今度は、私が、仏さまとなって、この娑婆世界に残してきた、大切な人たちの所へ行って、お念仏をさせ、お浄土へ導きます。
そんな大切なお仕事が、私の未来には、用意されているようです。

 

そのおはたらきが、全部込められてある「南無阿弥陀仏」ですが、日常生活では、使い道のない言葉です。
人間が作り出した言葉でもなければ、人間が伝えていける言葉でもありません。
仏さまのお悟りの言葉。
仏さまが、私に伝えてくださる言葉。
仏さまが、私に称えさせてくださる言葉です。

 

今日、もしも、「南無阿弥陀仏」とお念仏したとするならば、誰がその「南無阿弥陀仏」を私の口に届けてくれたのでしょうか。
その届けてくれたお方を、仏さまと仰ぎます。
私の、忙しい日常の手を止めさせて、西法寺のホームページを開かせて、この掲示板の言葉を読ませ、この口に「南無阿弥陀仏」を届けてくれたお方がいたとするならば、そのお方は、仏さまです。

 

亡き人は、死んで終わりのいのちだったのではなく、今、大活躍くださっています。
「南無阿弥陀仏」を届けてくださる仏さまとなって、今、私とご一緒です。

 

「往きしひと 皆この我に還り来て 南無阿弥陀仏と 称えさせます」

 

私の大好きなこの詩と、「南無阿弥陀仏」のお念仏が、この8月、皆さまとともにありますよう、念じております。

2020年7月

願わざれども 花は咲き  いくら願えど 花は散る

この世界は、思い通りにならないことばかりの世界なんだよ、と
仏さまは、教えてくださいました。
その人生を、どう歩めばよいのか。

 

東井義雄という、お念仏の先輩がおられました。
そのお言葉を、ご一緒したいと思います。

 

 「新年に」
  よいことばかりやってくるように
  つらいこと 苦しいことはやってこないように
  そんなことを願っても
  それは 無理というもの
  どんなことが やってきても
  おかげさまでと
  それによって
  人生を 耕させてもらう道
  人生を深め
  豊穣にさせていただく道
  それが
  お念仏の道

 

 「老」
  「老」は
  いろいろな力が失われていく
  過程のことではあるけれども
  得させてもらう過程でもある
  視力は失われていくが
  花が だんだん 美しく
  不思議に 見させてもらえるようになる
  聴力は だんだん 失われていくが
  もの言わぬ 蟻の声が 聞こえるようになる
  もの言わぬ みみずの声が 聞こえるようになる
  体力は どんどん 失われていくが
  あたりまえで あることの ただごとでなさが
  体中に わからせてもらえるようになる

 

生きづらい人生を、どう耕し、豊かにするのか。
それは、「あたりまえ」を、「ありがとう」、「おかげさま」といただいていくことなのかもしれません。

 

「ありがとう」や「おかげさま」を見つけるのは、難しいかもしれませんが、
「あたりまえ」を探せば、そこには「ありがとう」や「おかげさま」があるのかもしれません。

 

今の身の上にある「あたりまえ」を探すこと。
人生を支えてくれる「あたりまえ」を見つめること。

 

東井先生の足跡から、教えられる気がします。

2020年6月

「こころ」は、見えないが、「こころづかい」は、見える。

東日本大震災がおこったとき、ACジャパンのCMとして、よくテレビで見聞きしたフレーズです。
そのもとは、詩人、宮澤 章二さんのお書き物で、こうあるそうです。

 

 あなたの<こころ>はどんな形ですか
 と ひとに聞かれても答えようがない
 自分にも他人にも<こころ>は見えない
 けれど ほんとうに見えないのであろうか

 

 確かに<こころ>はだれにも見えない
 けれど<こころづかい>は見えるのだ
 それは 人に対する積極的な行為だから

 

 同じように胸の中の<思い>は見えない
 けれど<思いやり>はだれにでも見える
 それも人に対する積極的な行為だから

 

 あたたかい心が あたたかい行為になり
 やさしい思いが やさしい行為になるとき
 <心>も<思い>も 初めて美しく生きる

 

「美しい感情は、積極的に出しましょう」、そんな意味あいで、読ませていただきました。
でもその一方で、「負の感情が、思わず出てきてしまう」、そんなこともあるような気がします。
「心にもないことを言ってしまいました」、とはいいつつも、本当は、「心にある」から出てきたわけです。
気づかいや思いやり、感謝やお礼は、なるべく表に。
また、なまけ心や怒り、恨みは、なるべく表に出ないように。
そのもとになる、「心」を見つめることも、まずは大切なことなのかもしれません。

 

今は、新型コロナ感染症の影響で、どこへ行ってもマスク姿の人が多く、消毒薬がそこかしこに準備されてあります。
「クレームが出ないように」。そうかもしれません。
「不安だからだ」。それもあります。
でも、「他人に対する思いやりが形になったもの」。そうとも言えると思います。
そう思って眺めると、世の中、そこかしこに思いやりが見えるような気がして、見えないおかげ様が見える気がします。
そして、自分自身も、まず思いやりの心を大切にしたいと思います。
無いものは、出ませんので。

2020年5月

夢は砕けて夢と知り 愛は破れて愛と知り 時は流れて時と知り 友は別れて友と知り / 阿久悠

先日、あるご門徒さまとお話しする中で、人は常に一歩遅れで気づく、そんなことが話題になりました。
自分の人生を振り返ってみると、本当にそうだな〜と考えさせられます。

 

今月の言葉は、阿久悠さんが、よくお使いになられたフレーズだそうです。
自分の身に引き寄せやすく、味わいやすい、そして深い言葉です。

 

先日、脳科学者の茂木健一郎さんが、新型コロナウイルスの件にちなんで、こんなことをおっしゃっていました。
「脳はコントラストから学ぶ。
当たり前だと思っていた日常が続けられなくなってしまった時に、その日常がいかにありがたいものであったかということに気づく。
そのことで、日常に回帰した時に、日常を活かすライフスタイルが深まっていくことが期待できる。トンネルを抜けた時の明るさを待ちたい。」

 

お坊さんが、仏教を学ぶ中でも、こんなことを聞かせていただきます。
「紫色だけを見ていると、それが、紫色なのか、朱色なのか区別しにくいが、二つを隣に並べるとすぐに分かる。」

 

雨と晴。
夜と昼。
死と生。
非日常と日常。
新型コロナウイルスの件があって、はじめてわかる、日常の輝きを思います。

【住 職】 園 淵 和 夫  【若 院】 園 淵 和 貴
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