2021年1月(後半)

食わねば死ぬ 緊急の課題 食っても死ぬ 永遠の問題

標語の前半、「食わねば死ぬ 緊急の課題」。

 

今日食べねば、命をつないでいくことができない。それは本当のことですし、とても大切なことです。

 

ですが、標語の後半、「食っても死ぬ 永遠の問題」。

 

たとえ命を長らえることができても、いつか死を経験せねばならない。これは、未来のことでありながら、しかし確定しています。

 

お寺では、前半の課題よりは、後半の問題をこそ、仏教の存在意義として扱ってきました。

 

前半の課題は、お寺でも扱えることですが、お寺でなくても扱えます。
ですが、後半の問題は、お寺でしか扱えないことです。

 

今月の標語の言葉を少し変えてみます。

 

「コロナ」で死ぬ 緊急の課題 「コロナ」でなくても死ぬ 永遠の問題

 

こう言い換えても、お寺で扱う問題は、やはり前半ではなく、後半です。

 

「コロナにかかりませんように」とお願いする想いは、痛いほど理解できます。
ですが、仏教は、「コロナであってもなくても、あなたのことが大事だよ」とおっしゃる仏さまがいる。このことを、大切にせよ、と教えています。

 

生老病死の現実は、お釈迦様ご在世の2,500年前から、変わりません。
それを抱える人間の苦しみも、変わりません。
そして、その人間を「捨てない」と仰る仏さまのお救いも、変わりません。

 

お釈迦さまが口にされ、親鸞さまが口にされた「南無阿弥陀仏」のお念仏を、現代を、コロナ禍の中を生きるこの私が、口にします。
時代を超え、場所を超えた、変わらないお救いを、わが身の上に、確認させたいただきます。

 

2021年1月(お正月)

明けまして、南無阿弥陀仏

阿弥陀さまのお慈悲一杯が、

 

わが身一杯に満ち満ちて、

 

南無阿弥陀仏と出てくださいます。

 

目に見えぬ、慈悲が言葉にあらわれて、南無阿弥陀仏と、声で知られる

 

世相が如何に変わろうと、阿弥陀様は、ご一緒です。

 

これまでも、これからも、南無阿弥陀仏で、ご一緒です。

 

本年も、お世話になります。

2020年12月

渋柿の 渋がそのまま 甘みかな

小学生の頃、お寺の庭に渋柿がありました。
どんな味なのかと思い、思いっきりほおばって食べたことがありました。
口の中に膜が張ったような強烈な違和感。
渋みとは、このことか。
すぐに口をひっくり返して皮をはがしたくなるような、とんでもない衝動にかられたのを覚えています。

 

渋柿の渋さは、お茶にも含まれるタンニンという成分だそうです。
その渋さは、鳥などから未熟な種を護るためにあるそうですが、その渋柿が太陽のもとで干されると、食べても渋みがなくなり、栄養価も高まるそうです。
誰がそんなことを発見したのかと、先人の知恵に驚くばかりですが、阿弥陀さまと私の関係にも通じる部分があります。

 

太陽の光が、阿弥陀さま。
渋柿が、私です。

 

私の持っている悪性が、阿弥陀さまのはたらきに照らされて、そのままおさとりの功徳に転換される。
そんなはたらきが、親鸞様のご和讃に示されます。

 

 無礙光の利益より 威徳広大の信をえて
 かならず煩悩のこほりとけ すなはち菩提のみづとなる

 

 罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて
 こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし

 

阿弥陀さまのお慈悲には、私の煩悩の氷を溶かし、そのまま菩提の水と変えなすはたらきがある。
私は「煩悩を抱える存在」というよりも、煩悩が服を着て歩いているような存在だと言われます。
足の先から指先まで煩悩でいっぱいの私です。
でも、だからこそ、一たびその私が阿弥陀様の光に照らされ、あたためられると、足の先から指先までが、阿弥陀様のお慈悲一杯、功徳いっぱいに満たされることになります。

 

まさに、「渋柿の 渋がそのまま 甘みかな」。
阿弥陀さまのお慈悲いっぱいを、この身いっぱいにいただきます。

 

年末迫る寒さの中、お日様の下に身を置く度に、思い返されるお示しです。

2020年11月

隣のレジは、早い。

知る人ぞ知る、この言葉。
ご存じでしょうか。
実は、仏教伝道協会の「輝け!お寺の掲示板大賞2019」で、賞をとった言葉なのです。

 

受賞の際の講評として、
「日常に潜む苦(思い通りにならなさ)を、パロディーの手法で見事に表現している作品ですね。こうやって、我々はいつも自分の心の中で苦を生産しているんだなと、レジの情景を思い描きながら心底実感させていただきました。」
と、ありました。

 

日常のよくある風景をうまく切り取り、あるある、という共感とともに、煩悩のあり方がうまく出ているように思います。

 

ココが早そうだと思って並んだレジが、なかなか進まない。
そんな経験は、よくあります。
隣のレジの、同じタイミングぐらいに並んだ人と、勝手に競争をして、イライラ。
自分の思い通りにならなかった状況に、イライラ。

 

自分と他人を比べる必要なんてないのに、比べることで苦しみを抱える。
分かってはいますが、かといって「比べるな」と言われても、つい比べてしまうのが我々かもしれません。

 

昔、「バラの無い花屋」というドラマがありました。
元SMAPの香取慎吾さんが、主人公として非常にやさしい父を演じておられました。

 

その主人公は、駅の券売機やスーパーのレジでは、一番時間のかかりそうなレジに、あえて並ぶ人でした。

 

急ぐのが苦手な人や、お年寄りは、細かい小銭を出す際などに時間がかかる。
すると、レジの担当の人や、自分の後ろに並んでいる人の目線も気になり、余計に焦る。
すると余計に力が入り、余計に時間がかかる。

 

そのことを知っている主人公は、思うんです。

 

「その人だって、好きで時間をかけているわけではないのに、焦ってしまうのかもしれない。だったら、自分が後ろに並んで、プレッシャーをかけないように、ニコニコ待っていればいい。焦らなくていいですよ、私、急いでませんから。」
そんな人を護りたくって、そんな思いを伝えたくって、自分がそこに、あえて並ぶ。
そんな人物として、描かれていました。

 

この発想、素敵だな、と思うんです。

 

「隣のレジは、早い。」

 

よくわかります。
でもその時に、この状況を「よくない状況」だと思わずに、この主人公を演じている気になって、ニコニコ待ってみてもいいのかもしれません。
別に何をしたわけでもないのですが、「このレジは、私が護った」という感じ、何か「良いことをした感じ」をもらえます。

 

イライラしてレジが早くなるならまだしも、何も変わらないんだったら、状況そのものではなく感受性の方を変えてしまえばいい。

 

そんなことを考えさせられる、掲示板大賞のお言葉でした。

2020年10月

あれば鳴る なければ鳴らぬ 鈴の珠 胸に六字の なきは称えず

今言う「六字」とは、「南無阿弥陀仏」の六字です。
浄土真宗では、この「南無阿弥陀仏」をとても大切にしますが、
そもそも、この「南無阿弥陀仏」って、何かご存じでしょうか。

 

お念仏?
名号?
お掛け軸?

 

全部正解です。
…が、「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀様という仏さま、そのもの」ということを知っておくことが、大切です。

 

そのことをよく表してくださるのが、この句です。
この句では、私のことを鈴に喩えています。

 

鈴は、鳴らそうと思えばいつでも鳴ります。
なぜ、鳴るか。
それは、鈴の中に、珠が入っているからです。
珠さえあれば、いつでもどこでも、鳴らしたいときに、鳴らすことができます。

 

それと同じように、私は今、南無阿弥陀仏とお念仏することができます。
日常会話では、何の使い道もないはずの南無阿弥陀仏という言葉が、なぜ私の口からこぼれてくるのか。
それは、私の内側に、すでに「南無阿弥陀仏」が入っているからなんだ、というのです。

 

阿弥陀様は、「南無阿弥陀仏」という、おさとりむき出しのお言葉に、そのおすがたを変えられました。
そして今、「南無阿弥陀仏」のおすがたそのままで、私の内側で珠となり、この胸にご一緒です。
いつでもどこでも、ご一緒です。

 

私という鈴は、歳を重ねると、外側がボロボロに傷んでくるかもしれません。
いい音が出なくなったり、ご縁によっては、音を出すこともできなくなるかもしれません。

 

ですが、この鈴においては、たくさん鳴るかどうか、や、いい音で鳴るかどうか、に値打ちを見るのではありません。
私の中に入っている珠にこそ、大きな値打ちを見るんです。
「珠」と言う漢字が、「価値あるもの。すぐれたもの」という意味であるように、
いつも私の内側にあり、いつでも私に「南無阿弥陀仏」と称えさせる「南無阿弥陀仏」そのものに、大きな値打ちがあります。

 

私をお浄土に引っ張り上げる、阿弥陀様の智慧と慈悲の功徳そのままが、「南無阿弥陀仏」の六字に仕上がり、今、私とご一緒です。
つま先から髪の毛の先にまで、仏様の功徳が満ち満ちてあります。

 

嬉しい時、うまくいったとき、この鈴を鳴らします。
「みんなのおかげ様だったね」と、阿弥陀様がご一緒です。

 

つらい時、悲しい時、孤独を感じるその時に、この鈴を鳴らします。
「私はここに一緒だよ」と、阿弥陀様が、ご一緒です。

 

自分の値打ちが、自分で分からなくなる時、この鈴を鳴らします。
「それでもあなたが大事だよ」と、阿弥陀さまが、ご一緒です。

 

私の抱える苦しみ、悲しみ、孤独やつらさ、全部をご存じのそのうえで、
「あなたのことが大事だよ。あなたのことが大事だよ」
そうおっしゃる阿弥陀様が、「南無阿弥陀仏」でご一緒です。

2020年9月

ひとりひとりの子どもの背後に「親」がある。
子どもは「願われている存在」である。

どのような子どもであれ、その子の背後には、その子を「わが子よ」と喚(よ)ぶ親がいます。
親は、いつから子どもを喚び始めるのでしょうか。
それはきっと、生まれた時からではなく、そのずっと前、その子がおなかに宿った時から、「わが子よ、わが子よ」と喚ぶのではないかと思います。

 

「わが子よ」と喚ぶのは、親の名のりです。
どんなにやんちゃな子であっても、その子をどんなに叱った日であっても、決して捨てず、「それでもあなたが大事だよ」。
そう告げていく存在を、「親」と呼ぶのかもしれません。
どの様な子どもであっても、その子のいのちの上には、親の一生懸命が宿っています。
生まれた瞬間から、いのち宿った瞬間から、そのいのちの上には、大きな願いがかけられています。

 

 ひとりひとりの子どのも背後に「親」がある。
 子どもは「願われている存在」である。

 

この言葉をご覧になったとき、どの「子ども」を思い浮かべるでしょうか。
自分の子ども。親戚の子ども。ご近所さんや、友人の子どもなど、思い浮かべる姿は様々ですが、他でもない、私自身も、一人の子どもです。
親亡きお方であっても、親の子どもだったはずです。

 

この頭を撫でてくれた、親がいました。
泣く私を抱き寄せて、涙をぬぐってくれた、親がいました。
夕暮れに、この手を引いて、一緒に歩いてくれた、親がいました。

 

このいのちには、わが親の、一生懸命が宿っています。
その一生懸命に支えられ、今日まで来たのではなかったでしょうか。

 

今、どのような身であっても、変わらず私を、「わが子よ」と、喚んでくださる仏さまがいます。
その仏さまは、たとえ私が、年を重ね、知り合いが減り、故郷を離れねばならなくなったとしても、「帰るいのちの故郷があるよ。ともに歩もう」と、人生の夕暮れを、手を引いて、一緒に歩んでくださる、声の仏さまです。

 

阿弥陀さまは、今日も私の口を借り、南無阿弥陀仏、と喚んでくださいます。
「さみしくなったらお念仏をしてね。ほら、ひとりじゃない、ひとりじゃない。あなたのいのちの内側に、いつでも私は一緒だよ。」
わが身の上に、大きな願いがかけられてある。
そのことを胸に、今日を歩んでまいります。

2020年8月

往きしひと 皆この我に還り来て 南無阿弥陀仏と 称えさせます

日本人の生活習慣の中で最大のものは、お正月とお盆だと言われています。
そのお盆とは、仏教の行事です。
例年であれば、西法寺でも「お盆の法要」をお勤めしていましたが、今年は、新型コロナウイルス感染症の影響により、中止となりました。
本当に残念です。
ですが、せめて掲示板では、お盆を思える言葉を味わいたいと思います。

 

浄土真宗のご本尊は、阿弥陀様という仏さまです。
この阿弥陀様は、遠くにおられる仏さまではなく、今、「南無阿弥陀仏」のお姿となって、私の身に満ち満ちてくださる仏さまです。
そして、満ち満ちるだけではなくて、そのことを知らせるために、「南無阿弥陀仏」のお姿のままで、この口から、わざわざこぼれ出てくださる仏さまです。
その、こぼれ出てくださる「南無阿弥陀仏」が、お念仏です。
ですので、お念仏すれば、いつでもどこでも、阿弥陀さまがご一緒下さることを確認できます。

 

その阿弥陀様のおはたらきで、私は、いのち終わった後、お浄土へ生まれます。
お浄土へ生まれた後、どうするか。
今度は、私が、仏さまとなって、この娑婆世界に残してきた、大切な人たちの所へ行って、お念仏をさせ、お浄土へ導きます。
そんな大切なお仕事が、私の未来には、用意されているようです。

 

そのおはたらきが、全部込められてある「南無阿弥陀仏」ですが、日常生活では、使い道のない言葉です。
人間が作り出した言葉でもなければ、人間が伝えていける言葉でもありません。
仏さまのお悟りの言葉。
仏さまが、私に伝えてくださる言葉。
仏さまが、私に称えさせてくださる言葉です。

 

今日、もしも、「南無阿弥陀仏」とお念仏したとするならば、誰がその「南無阿弥陀仏」を私の口に届けてくれたのでしょうか。
その届けてくれたお方を、仏さまと仰ぎます。
私の、忙しい日常の手を止めさせて、西法寺のホームページを開かせて、この掲示板の言葉を読ませ、この口に「南無阿弥陀仏」を届けてくれたお方がいたとするならば、そのお方は、仏さまです。

 

亡き人は、死んで終わりのいのちだったのではなく、今、大活躍くださっています。
「南無阿弥陀仏」を届けてくださる仏さまとなって、今、私とご一緒です。

 

「往きしひと 皆この我に還り来て 南無阿弥陀仏と 称えさせます」

 

私の大好きなこの詩と、「南無阿弥陀仏」のお念仏が、この8月、皆さまとともにありますよう、念じております。

2020年7月

願わざれども 花は咲き  いくら願えど 花は散る

この世界は、思い通りにならないことばかりの世界なんだよ、と
仏さまは、教えてくださいました。
その人生を、どう歩めばよいのか。

 

東井義雄という、お念仏の先輩がおられました。
そのお言葉を、ご一緒したいと思います。

 

 「新年に」
  よいことばかりやってくるように
  つらいこと 苦しいことはやってこないように
  そんなことを願っても
  それは 無理というもの
  どんなことが やってきても
  おかげさまでと
  それによって
  人生を 耕させてもらう道
  人生を深め
  豊穣にさせていただく道
  それが
  お念仏の道

 

 「老」
  「老」は
  いろいろな力が失われていく
  過程のことではあるけれども
  得させてもらう過程でもある
  視力は失われていくが
  花が だんだん 美しく
  不思議に 見させてもらえるようになる
  聴力は だんだん 失われていくが
  もの言わぬ 蟻の声が 聞こえるようになる
  もの言わぬ みみずの声が 聞こえるようになる
  体力は どんどん 失われていくが
  あたりまえで あることの ただごとでなさが
  体中に わからせてもらえるようになる

 

生きづらい人生を、どう耕し、豊かにするのか。
それは、「あたりまえ」を、「ありがとう」、「おかげさま」といただいていくことなのかもしれません。

 

「ありがとう」や「おかげさま」を見つけるのは、難しいかもしれませんが、
「あたりまえ」を探せば、そこには「ありがとう」や「おかげさま」があるのかもしれません。

 

今の身の上にある「あたりまえ」を探すこと。
人生を支えてくれる「あたりまえ」を見つめること。

 

東井先生の足跡から、教えられる気がします。

2020年6月

「こころ」は、見えないが、「こころづかい」は、見える。

東日本大震災がおこったとき、ACジャパンのCMとして、よくテレビで見聞きしたフレーズです。
そのもとは、詩人、宮澤 章二さんのお書き物で、こうあるそうです。

 

 あなたの<こころ>はどんな形ですか
 と ひとに聞かれても答えようがない
 自分にも他人にも<こころ>は見えない
 けれど ほんとうに見えないのであろうか

 

 確かに<こころ>はだれにも見えない
 けれど<こころづかい>は見えるのだ
 それは 人に対する積極的な行為だから

 

 同じように胸の中の<思い>は見えない
 けれど<思いやり>はだれにでも見える
 それも人に対する積極的な行為だから

 

 あたたかい心が あたたかい行為になり
 やさしい思いが やさしい行為になるとき
 <心>も<思い>も 初めて美しく生きる

 

「美しい感情は、積極的に出しましょう」、そんな意味あいで、読ませていただきました。
でもその一方で、「負の感情が、思わず出てきてしまう」、そんなこともあるような気がします。
「心にもないことを言ってしまいました」、とはいいつつも、本当は、「心にある」から出てきたわけです。
気づかいや思いやり、感謝やお礼は、なるべく表に。
また、なまけ心や怒り、恨みは、なるべく表に出ないように。
そのもとになる、「心」を見つめることも、まずは大切なことなのかもしれません。

 

今は、新型コロナ感染症の影響で、どこへ行ってもマスク姿の人が多く、消毒薬がそこかしこに準備されてあります。
「クレームが出ないように」。そうかもしれません。
「不安だからだ」。それもあります。
でも、「他人に対する思いやりが形になったもの」。そうとも言えると思います。
そう思って眺めると、世の中、そこかしこに思いやりが見えるような気がして、見えないおかげ様が見える気がします。
そして、自分自身も、まず思いやりの心を大切にしたいと思います。
無いものは、出ませんので。

2020年5月

夢は砕けて夢と知り 愛は破れて愛と知り 時は流れて時と知り 友は別れて友と知り / 阿久悠

先日、あるご門徒さまとお話しする中で、人は常に一歩遅れで気づく、そんなことが話題になりました。
自分の人生を振り返ってみると、本当にそうだな〜と考えさせられます。

 

今月の言葉は、阿久悠さんが、よくお使いになられたフレーズだそうです。
自分の身に引き寄せやすく、味わいやすい、そして深い言葉です。

 

先日、脳科学者の茂木健一郎さんが、新型コロナウイルスの件にちなんで、こんなことをおっしゃっていました。
「脳はコントラストから学ぶ。
当たり前だと思っていた日常が続けられなくなってしまった時に、その日常がいかにありがたいものであったかということに気づく。
そのことで、日常に回帰した時に、日常を活かすライフスタイルが深まっていくことが期待できる。トンネルを抜けた時の明るさを待ちたい。」

 

お坊さんが、仏教を学ぶ中でも、こんなことを聞かせていただきます。
「紫色だけを見ていると、それが、紫色なのか、朱色なのか区別しにくいが、二つを隣に並べるとすぐに分かる。」

 

雨と晴。
夜と昼。
死と生。
非日常と日常。
新型コロナウイルスの件があって、はじめてわかる、日常の輝きを思います。

【住 職】 園 淵 和 夫  【若 院】 園 淵 和 貴
【住 所】 〒555−0001 大阪市西淀川区佃1−11−3
【電 話】 06 ( 6471 ) 6330
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