2021年7月

人生が、行き詰まるのではない
自分の思いが、行き詰まるのだ

普段の生活の中で、大きな問題が、急に起こると、目の前の出来事にいっぱいいっぱいになってしまって、気持ちがあせり、他のことが考えられなくなる。
心が急ぎ過ぎて、うまくいくはずのことも、うまくいかなくなる。

 

そんな事って、ありませんか。

 

そんな状況を、冷静な今のうちに、少し想像してみるんです。

 

そんな状況のとき、私たちは、その出来事を目の前に持ってきすぎて、近くで眺めすぎているのかもしれません。

 

近すぎるところで眺めると、その事しか目に入らなくなってしまう。
ほかの事が見えなくなる。

 

そういう時は、少し意識して、その出来事を遠くに眺めてみるのもいいかもしれません。

 

遠い景色として眺めると、少し心が落ち着きます。

 

でも、それができないときは、そこに違う目線を入れてみるのもいいかもしれません。

 

あの人だったらどういうだろうか。
父だったら、母だったら、自分の尊敬するあの人なら、どうするだろうか。

 

すると、少し落ち着いて考えることができるといいます。

 

そして、そこに、仏さまの目線を入れるのも、大切な一つの眼差しです。

 

目の前に近づきすぎていた出来事を、遠くから眺めると、小さく見える。

 

大きな大きな仏さまの目線を入れると、目の前のことも、小さく見える。

 

宇宙飛行士のお方は、宇宙から地球を見たことがある人です。
宇宙から、地球を眺めると、その壮大さに心打たれるそうです。
そして、暗い暗い宇宙に、たった一つ浮かぶ美しい地球を見ると、その表面にへばりつき、お金や人間関係であくせくしている人間が、いかにちっぽけな存在か、思い知らされるといいます。

 

そんな眼差しを持てた人、人間の日常を遠くから眺め見ることができた人は、地球に帰ってきて引退すると、都会でバリバリお金儲けをする生活ではなく、地方でのんびり農業などで生活をする人が多いといいます。

 

そう考えると、物理的に遠くから眺めることができなくても、心の距離を取って、あくせくしすぎていた自分を遠くに眺め見る目線を持つことも、大切なことなのかもしれません。

 

すると、人生そのものが息詰っていたのではなく、自分の思いが行き詰っていただけだったな、そう思えるのかもしれません。

2021年6月

阿弥陀には 隔つる心はなけれども
  蓋(ふた)ある水に 月は宿らじ

浄土真宗の第8代のご門主、蓮如上人は、一休さんと親交があったといいます。

 

とんちで有名な一休さん。
蓮如上人よりも20歳ほども歳上だったそうです。
かたや臨済宗の禅僧、かたや浄土真宗のご門主さま
ですが、そこは一級の仏弟子同士、
信仰に関する腹を聞きあうのは、お互いに楽しかったのではないでしょうか。

 

ある時、一休さんが、蓮如上人に歌を贈られたそうです。

 

  阿弥陀には まことの慈悲はなかりけり
  たのむ衆生を のみぞたすくる 

 

  (意訳)阿弥陀さまには、本当の慈悲がないのではないか。
      阿弥陀さまをたのむ者だけを救うと言っているではないか。

 

これに対し、蓮如上人は、次の歌を返されたそうです。

 

  阿弥陀には 隔つる心はなけれども
  蓋(ふた)ある水に 月は宿らじ

 

  (意訳)阿弥陀さまの側には、人々を別け隔てするような心はないが、
      蓋(ふた)をしてしまった水面には、月が映らないように、
      阿弥陀さまのお救いを疑い、拒絶している人には、
      宿るものも宿らず、仏なき世界を自らが作りあげているのである。

 

仏教では、仏さまの言葉を受け止めることができない障りを蓋(ふた)にたとえ、
その蓋(ふた)に5種類あるんだよ、と教えてくれます。

 

  @欲しい欲しいと、欲望でいっぱいの心持ちの時。

 

  A怒りの心でいっぱいの時。

 

  B心も体も疲れて、衰弱している時。

 

  Cそわそわして心が浮ついている時。

 

  D疑いやためらいの心がいっぱいの時。

 

この5つを「五蓋(ごがい)」といい、この時は仏さまの話を聞くどころではない、と言われます。

 

親鸞聖人、そして蓮如上人は、中でも5番目、疑いの蓋をつよく誡められました。

 

私のものとには、阿弥陀さまが、慈悲いっぱいのお心で、今すでに、南無阿弥陀仏と届いてくださいます。

 

そのはたらきを疑い、拒絶するということは、

 

たとえば、、、

 

 父が、私を心配してかけてくれた電話をわざわざ切るようなもの、

 

 母が、私を心配して送ってくれた段ボールいっぱいの荷物を突き返すようなものだ、

 

 と、言われます。

 

今日も、この身に届く「南無阿弥陀仏」を、有り難くいただきます。

2021年5月

人のからだは、食べたもので作られる
人のこころは、聞いた言葉で作られる
人のみらいは、話した言葉で作られる

すごく考えさせられる標語です。

 

よくよく考えてみると、私の身体は、不思議です。
他の命を口に入れ、口から食堂、食堂から胃、胃から腸と、順々に消化していくそうですが、口に入れたその命、どの段階で、「私」になるのでしょう。
そう考えると、私の身体だと簡単に考えていますが、私だけの身体ではないような気がしてきます。

 

私の心も、簡単ではありません。
人間の脳は、主語が認識できないと聞いたことがあります。
私の脳は、他人に対して投げかける言葉も、自分の耳を通して聞いています。
でも、脳は主語を認識できないので、他人に「バカ」と言えば、私の脳は、「バカ」を自分のこととして聞くそうです。
私にも、思い当たる節があります。
子どもを強くしかりつけた時、自分でも涙ぐむときがあるのですが、もしかしたらこの原理のせいかもしれません。
そう考えると、私の心は、他人から語り掛けられている言葉だけではなく、自分の発している言葉ででも、作られているのかもしれません。

 

私の未来は、どうでしょう。
未来は、思った通りになるのではなく、行動した通りになります。
私の行動による業が、その報い(結果)を引っ張ってくる。
まさに自業自得です。
ですが、私の行動のもとには、私の心があります。
心にもないことをすることはありません。
心にあるから行動します。
その行動のもととなる心を、言葉が作っているとするならば、私の未来も、言葉が作っているのかもしれません。

 

仏教では、私たちの行為を、身・口・意に分けて考えます。
心と体のみではなく、わざわざ口業、言葉を加えて説明するのです。
このことからも、色々考えさせられます。
浄土真宗は、南無阿弥陀仏のお念仏の宗教ですから、この標語に、阿弥陀さまを加味して、少し変えてみます。

 

・私のからだは、多くの命で作られる
・私のこころは、南無阿弥陀仏で作られる
・私のみらいは、南無阿弥陀仏で作られる

 

今、私たちは、「南無阿弥陀仏」のお念仏をいただきます。
多くの命に支えられているこの身体を使って、「南無阿弥陀仏」と称えます。
多くの命に支えられているこの身体に、「南無阿弥陀仏」を聞かせます。
「南無阿弥陀仏」が心に満ちて、仏さまになる未来が与えられます。

 

この標語を見た時、「なるほどな、こういうことかな」、と思ったのです。

 

人間の使う言葉と、お悟りからの名のりの言葉の違いはあれど、この標語をおとおして、南無阿弥陀仏の味わいが、また少し深くなった気がします。

2021年4月

消しゴムの本当の役割は  間違いを消すことじゃなくて
 間違えたっていいんだよって  鉛筆を安心させることだ

ネット上で見かけたこの言葉。
身近なところに深い味わいがなされてあって、素敵だと思いました。

 

皆さんは、「鉛筆」と「消しゴム」に、どの様なイメージをお持ちでしょうか。
私は、何のイメージも持っていませんでしたが、この標語からは、何らかのストーリーを感じます。

 

昨今では、過ちを犯してしまった人を、ネットやテレビで再起不能になるまで叩き続けることがあります。

 

そのことからすれば、過ちを犯してしまった「鉛筆」に対して、不機嫌そうに、その尻拭いをする「消しゴム」の姿を想像してしまうかもしれません。

 

緊張し、びくびくしながら働く「鉛筆」と、その隣で冷たく眺めている「消しゴム」。

 

でも、本当はそうではないかもしれない。

 

「消しゴム」は、言います。

 

『間違えたっていいよ。
 いつでも書き換えればいいんだから、今の精一杯を表現してよね。
 間違えた時には、いつでもなおすから、安心してね。
 なおせるボクが、いつでもキミの隣にいるよ。』

 

緊張する「鉛筆」に、やさしく微笑む「消しゴム」。
やがて「鉛筆」は、小さくうなづき、筆を走らせはじめる。

 

そんな情景が思い浮かびませんか。

 

結果的には、「消しゴム」が消すんだけれど、消すことそのものよりも、大丈夫だよって、「鉛筆」のそばにいることが力になる。
「消しゴム」と「鉛筆」。
素敵なセットです。

 

この人生においても、私と阿弥陀様は、セットです。

 

いつでも隣にいて、微笑んでくださる。

 

そんなあたたかな存在を、イメージさせてくれる言葉でした。

2021年3月

死にむかって 進んでいるのではない
今をもらって 生きているのだ  / 鈴木章子

鈴木章子(すずきあやこ)さんというお方は、北海道の真宗大谷派のお寺の坊守様だったそうです。
お寺の幼稚園の園長先生もなされ、4人のお子さんのお母さんでもありました。
ですが、42歳で乳癌が見つかり、47歳でご往生なさったそうです。
今月の言葉は、その鈴木章子さんが遺された詩の一節です。

 

 死にむかって進んでいるのではない
 今をもらって生きているのだ
 今ゼロであって当然な私が
 今生きている
 ひき算から足し算の変換
 誰が教えてくれたのでしょう
 新しい生命
 嬉しくて 踊っています
 “いのち 日々あらたなり”
 うーん 分かります

 

当たり前に過ごしている一日一日の意味を、再確認させてくれる内容です。

 

今日のこの日は、地球が始まって以来、まだ誰も生きたことのない一日です。
その一日一日の新鮮さを思います。

 

昔、我が家には日めくりカレンダーがありました。
その日一日の情報だけが確認でき、終わればちぎって捨てていく。
年始には分厚かったカレンダーが、日々ちぎられ減っていき、年末にはペラペラになります。
一日が終わり、新しい一日が始まる。
そんな感覚がよく分かります。

 

ですが、人生とカレンダーでは、過ぎた一日の扱いが、大きく違うように思います。
日めくりカレンダーでは、ちぎられた日々は、ただ単に捨てられていくだけかもしれません。
ですが、人生の実感としては、過ぎし日は、むしろ積み上げられて、増えていくような気がします。
そのちぎられた日々こそが、私の人生であり、命の歴史です。

 

阿弥陀さまという仏さまは、日々、私とご一緒です。
楽しい時もあるけれど、つらい時もありますし、悲しい時もあります。
どの様な時でも、阿弥陀さまは、ご一緒です。
私の人生、どこをとっても、阿弥陀さまがご一緒でなかった日はありません。

 

そう考えると、ちぎられ、積み上げられた日々は、阿弥陀様がご一緒の、尊い日々です。
捨てられていく時間ではなく、仏さまがご一緒くださった、尊い時間の積み重ねとも言えます。

 

命終る時に、人生を振り返る余裕があれば、何を想うでしょうか。
楽しいことも多かったけれど、つらいこと、悲しいことの方が多かった。
たとえそうとしか思えない人生であったとしても、
どこを押さえても仏さまがご一緒下さる人生だった、と、私の人生そのものに手を合わせていけるような、そんな足し算の人生を歩ませていただきます。

 

今日も一日、阿弥陀様がご一緒の、まっさらな一日であります。

 

南無阿弥陀仏。

2021年2月

名前は、親が子供に送る、はじめての手紙なのかもしれない。

今月の言葉は、2012年の新聞に掲載された広告コピーだそうです。
あぁ、本当だな、と考えさせられました。

 

普段、街を歩いていると、沢山の人とすれ違います。
仕事帰りで早足に歩くお方。
手押し車を押し、一歩一歩、ゆったり歩いておられるご老人。
子供と手をつないで歩くお母さん。
学校帰り、友達とおしゃべりしている学生さん。

 

すれ違うだけの人ですが、その一人一人は、必ず自分の名前を背負って生きています。
百年もさかのぼる必要はありません。
ほんの何十年か前には、必ず、赤ちゃんだったころがあったはずです。
そしてそのそばには、お世話をしてくれた、お父さんやお母さんがいたはずです。
そのお父さんやお母さんは、目の前の赤ちゃんに名前をおくります。

 

赤ちゃんが、一生背負っていく名前です。
一生懸命考えたと思います。
この子にはこうあってほしいという未来、こうあってほしいという性格、こうあってほしいという友人関係、こうあってほしいという幸せ。
色々な願いを、目の前の赤ちゃんに托し、名前をおくったのではないでしょうか。
そして、おくられた赤ちゃんは、その人生の中で、何度も何度も、その名前を書き、その名前を呼ばれます。
その名前に込められた願いと共に、その人生を歩んで行く。
そして、一生かかって、その人生に托された願いに出会っていくのではないでしょうか。

 

そう考えると、その名前を、「手紙」と表現された標記の言葉のセンスっ!と、びっくりしました。

 

そして、今、目の前を歩く一人一人は、それぞれが、託された願いの中を歩いている。
そう考えると、なんでもなかった一人一人が、少し大事に思えるような気がします。

 

阿弥陀さまは、一人一人が歩む人生の、すべてをご存じです。
この度の人生だけではありません。
その前の命の時も、そのまた前の命の時も、ずっとご一緒だったそうです。

 

阿弥陀様は、きっとおっしゃるんだと思うんです。
「あなたの人生、知っているよ。
 あなたの笑顔、知っているよ。
 その涙、知っているよ。
 だからこそ、あなたのことが大事だよ。」

 

阿弥陀さまの眼差しの中には、胸がギュッと締め付けられるような、愛おしさがある。
そんなふうに味わっています。

 

南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

【住 職】 園 淵 和 夫  【若 院】 園 淵 和 貴
【住 所】 〒555−0001 大阪市西淀川区佃1−11−3
【電 話】 06 ( 6471 ) 6330
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