2021年11月

毎日を人生最後の日だと思って生きよう。
いつか本当にそうなる日が来るから。

どなたの言葉だったか、どこで見たのか、定かではありませんが、ずっと心に残っている言葉です。

 

「毎日を人生最後の日だと思って生きよう。」

 

 →ふんふん、本当だな。

 

「いつか本当にそうなる日が来るから。」

 

 →ドキッ!

 

・・・っとなったのを覚えています。

 

こういうギョッとする言葉は大切です。
特に、生と死については、そう思います。

 

一般的に考えて、生と死は、反対概念です。

 

生きていることは死んでいないことですし、死んだということは生きていないということです。
生は死を否定しますし、死は生を否定する言葉です。

 

しかし、生を肯定するために、死に蓋をするのは、あまりいいアイデアではないようです。

 

反対概念は、生死にかぎらず、沢山あります。

 

善と悪。光と闇。夏と冬。いろいろです。

 

でも、どちらか一方だけでものを見ようとすると、反対の者が見えなくなるだけではなく、そのものすら見えなくなると思いませんか。

 

善のみの世界を考えると、悪がないどころか、善が善でなくなります。善が一体何なのか、分からなくなります。
闇のみの世界を考えると、光がないどころか、闇が闇でなくなります。闇がどの様な状態なのか、闇の中で分からなくなります。
夏のみの世界を考えると、冬がないどころか、夏が夏でなくなります。夏ってどんな季節なのか、夏のもつ意味が、分からなくなります。

 

生と死も、そうかもしれません。
死が嫌だからといって、蓋をして、考えないようにすると、死が見えなくなるだけではなく、生そのものが何なのか、生のもつ意味が分からなくなると思うのです。

 

死は、確かに、つらいことです。

 

ですが、そのつらい死を、受け入れる。
将来の事実として、受け止めていく。

 

そのなかに、命のかけがえのなさ、尊さ、生きることの意味が、与えられていくような気がします。

 

受け止めづらい死について、少しずつですが、受け入れていく一つの方法が、仏教です。

 

ぜひ、仏さまの言葉に、耳を傾けてみて下さい。

2021年10月

親と仏さまだけです。
世間の常識を超えた考えを持つのは。

阿弥陀さまは、「南無阿弥陀仏」の声のすがたで、今、私にご一緒下さいます。

 

この人生を、共に歩んでくださいます。
そして、人生の最後、命を終える時には、私の手を引いて、お浄土へお連れくださいます。

 

私の側は、頼んだ覚えもありません。
願ったわけでもないのです。

 

それでも、一方的に、見返りを求めずに、
私がどれほど拒絶しようとも、どうか救わせてくれ、どうか救わせてくれ、と、
いつも南無阿弥陀仏で、ご一緒下さる仏さまです。

 

この仏さまのはたらきが、私たちに分かりにくいのです。
なぜなら、世間では、こんな価値観が、なかなかないからです。

 

ちょっと想像してみて下さい。

 

ある日、あなたは、どうしても遠方に出かけなければならないとします。
準備をして、パッと扉を開けてみると、なんと雨が降っています。
嫌だな、とおっくうに思っていると、一台の車が家の前に停まりました。
車の窓が開き、知らない人が顔を出してきて、あなたに言うのです。

 

 「  ○○さん、今日は△△へ行かないといけないんでしょ。
   私、知ってますよ。
   でも、雨が降ってて大変でしょ。
   さあ、乗ってください。
   私が連れて行ったげますから。  」

 

しかも、お金も、見返りも、必要ないっていうんです。

 

どうでしょう。
皆さん、乗りますか?

 

乗らないですよね。
こんなお方がおられたら、明らかに怪しいです。

 

それは、この世の中が、「ギブ&テイク」の世界だからです。

 

でも、この人が、もしも、自分の親だったらどうでしょう。

 

きっと同じようなことを言うと思います。

 

 「  あなた、今日、△△へ行かないといけないんでしょ。
    でも、雨が降ってて大変でしょ。
    さあ、乗って。
    連れて行ってあげる。  」

 

お金も、見返りも、必要ありません。

 

どうでしょう。
私だったら、すぐに乗ります。

 

この「ギブ&テイク」の世界の中で、唯一、その価値観を超えるのは、
親の存在なのかもしれません。

 

むしろ、世間の損得の価値観を超えて、私のために一生懸命になってくれる存在がいるとすれば、
私たちは、その存在を、「親」と呼ぶのかもしれません。

 

仏さまのはたらきは、一方的で、見返りを求めません。

 

この「ギブ&テイク」の世界の中で、仏さまのはたらきは、分かりにくいのです。

 

そのなかで、仏さまのはたらきに似ているはたらきを探すとするならば、
もはや親のはたらきぐらいしかたとえようがないのかもしれません。

 

昔の先輩方は、仏さまのことを、「親さま」と呼ばれていたそうです。

 

私のことを、私以上にご存じで、一方的に、見返りを求めず、
ただただ私のために一生懸命になってくださる「親さま」が、
今日も「南無阿弥陀仏」でご一緒です。

2021年9月

「生きがい」だけでは、死を乗り越えることはできない。

あなたの生きがいは、何ですか。

 

そう聞かれると、何とお答えになられますか。

 

私の生きがいは、スポーツです。

 

他にも、、、、

 

ボランティアです。
仕事です。
貯金することです。
子どもや、孫の成長です。
友達と過ごす時間です。

 

等々。
答えは、人それぞれだと思います。

 

生きがいがあると、日々に張り合いや充実感があります。
行動力も湧いてきますし、楽しい時間を過ごせます。
やはり無いよりは、ある方がいいのではないでしょうか。

 

そんな生きがいを、私の人生を支える「杖」として喩えたなら、どうでしょう。

 

私を支えてくれるこの杖を、つよくつよく握りしめ、これで大丈夫だ、と人生を歩みます。
ですが、よくよく考えてみると、この杖は、いつか必ず折れていくものばかりではなかったでしょうか。

 

仕事ができなくなる日が来ます。
身体が動かなくなる日が来ます。
友人が去り、家族と会えなくなる日が来ます。

 

いくら目を背けても、その日は必ず来ます。
その極みが、人生最後の時、死を迎える時です。

 

その時に、私を支える杖がすべて折れ、自分で自分を支えることができなったなら、私たちは何を思うでしょう。

 

何のための人生だったのか。
何の意味があったんだろう。
孤独だ。
むなしい。

 

そんな思いだけで、人生の最期を過ごすのは、考えるだけでも恐ろしいことです。

 

だからこそ、その人生最後の時であっても、決して折れない杖を、一本持っておくことは、これ以上ない大切なことです。

 

浄土真宗では、その最後の杖が、阿弥陀様だといただきます。
南無阿弥陀仏は、いつでもどこでも私の支えとなってくださる、決して折れることのない杖です。

 

今は私を支える杖が沢山あって、別に南無阿弥陀仏の杖によりかからずとも生きていけるかもしれません。
ですが、いつか必ず、生きがいという杖は折れます。
死を前にした時、生きがいだけでは、私の支えとはなりません。

 

そしてその時に、南無阿弥陀仏の杖が、どれほど私の支えとなるか。
折れない杖が、どれほど頼もしいことか。

 

南無阿弥陀仏の杖は、誰でも手にすることができます。

 

もうすでに私と共にあることを、お念仏で聞いていきます。
小さな声で結構です。
今、その口に、南無阿弥陀仏と、お念仏してみてください。

 

ほら、今、その身に、阿弥陀さまがご一緒です。

 

南無阿弥陀仏でご一緒です。

2021年8月

人を偲んでいると 独り言が 独り言でなくなる

8月は、お盆の月です。

 

先輩方は、この月を、仏さまを思い、亡きお方を思う時間として、大切にしてこられました。

 

皆さんは、お墓参りをしたり、お仏壇の前に座る時、何をされますでしょうか。

 

お経をお勤めされるかもしれません。

 

お念仏だけ、合掌するだけ、チ〜ンとするだけ。

 

そんなときもあるかもしれません。

 

もしかしたら、何をするでもなく、その時間を、その場で過ごすだけのこともあるでしょう。

 

何をしていたとしても、何もしていなかったとしても、

 

その時間は、きっと、仏さまのことを想い、亡きお方のことを想うのではないでしょうか。

 

今日は、お参りに来たよ。

 

こんなことがあったよ。あんなことがあったよ。

 

うれしかったよ。申し訳ないことだったよ。

 

口に出すこともあれば、心の中だけで済ますこともある。

 

亡きお方と、心をすり合わせる時間が、そこにはあります。

 

新聞で、こんな言葉を見ました

 

  「そやったん」 言うてほしくて 墓参り

 

素敵だな、と思います。

 

何もなければ、独り言にすぎません。

 

ですが、大切なお方を思い、心を寄せる中では、もはや独り言ではありません。

 

先輩がたは、そんな時間を大切にしてこられました。

 

8月は、お盆の月です。

 

先輩方は、この月を、仏さまを思い、亡きお方を思う時間として、大切にしてこられました。

 

私たちも、仏さまを思い、亡きお方を思う時間として、大切にさせていただければと思います。

2021年7月

人生が、行き詰まるのではない
自分の思いが、行き詰まるのだ

普段の生活の中で、大きな問題が、急に起こると、目の前の出来事にいっぱいいっぱいになってしまって、気持ちがあせり、他のことが考えられなくなる。
心が急ぎ過ぎて、うまくいくはずのことも、うまくいかなくなる。

 

そんな事って、ありませんか。

 

そんな状況を、冷静な今のうちに、少し想像してみるんです。

 

そんな状況のとき、私たちは、その出来事を目の前に持ってきすぎて、近くで眺めすぎているのかもしれません。

 

近すぎるところで眺めると、その事しか目に入らなくなってしまう。
ほかの事が見えなくなる。

 

そういう時は、少し意識して、その出来事を遠くに眺めてみるのもいいかもしれません。

 

遠い景色として眺めると、少し心が落ち着きます。

 

でも、それができないときは、そこに違う目線を入れてみるのもいいかもしれません。

 

あの人だったらどういうだろうか。
父だったら、母だったら、自分の尊敬するあの人なら、どうするだろうか。

 

すると、少し落ち着いて考えることができるといいます。

 

そして、そこに、仏さまの目線を入れるのも、大切な一つの眼差しです。

 

目の前に近づきすぎていた出来事を、遠くから眺めると、小さく見える。

 

大きな大きな仏さまの目線を入れると、目の前のことも、小さく見える。

 

宇宙飛行士のお方は、宇宙から地球を見たことがある人です。
宇宙から、地球を眺めると、その壮大さに心打たれるそうです。
そして、暗い暗い宇宙に、たった一つ浮かぶ美しい地球を見ると、その表面にへばりつき、お金や人間関係であくせくしている人間が、いかにちっぽけな存在か、思い知らされるといいます。

 

そんな眼差しを持てた人、人間の日常を遠くから眺め見ることができた人は、地球に帰ってきて引退すると、都会でバリバリお金儲けをする生活ではなく、地方でのんびり農業などで生活をする人が多いといいます。

 

そう考えると、物理的に遠くから眺めることができなくても、心の距離を取って、あくせくしすぎていた自分を遠くに眺め見る目線を持つことも、大切なことなのかもしれません。

 

すると、人生そのものが息詰っていたのではなく、自分の思いが行き詰っていただけだったな、そう思えるのかもしれません。

2021年6月

阿弥陀には 隔つる心はなけれども
  蓋(ふた)ある水に 月は宿らじ

浄土真宗の第8代のご門主、蓮如上人は、一休さんと親交があったといいます。

 

とんちで有名な一休さん。
蓮如上人よりも20歳ほども歳上だったそうです。
かたや臨済宗の禅僧、かたや浄土真宗のご門主さま
ですが、そこは一級の仏弟子同士、
信仰に関する腹を聞きあうのは、お互いに楽しかったのではないでしょうか。

 

ある時、一休さんが、蓮如上人に歌を贈られたそうです。

 

  阿弥陀には まことの慈悲はなかりけり
  たのむ衆生を のみぞたすくる 

 

  (意訳)阿弥陀さまには、本当の慈悲がないのではないか。
      阿弥陀さまをたのむ者だけを救うと言っているではないか。

 

これに対し、蓮如上人は、次の歌を返されたそうです。

 

  阿弥陀には 隔つる心はなけれども
  蓋(ふた)ある水に 月は宿らじ

 

  (意訳)阿弥陀さまの側には、人々を別け隔てするような心はないが、
      蓋(ふた)をしてしまった水面には、月が映らないように、
      阿弥陀さまのお救いを疑い、拒絶している人には、
      宿るものも宿らず、仏なき世界を自らが作りあげているのである。

 

仏教では、仏さまの言葉を受け止めることができない障りを蓋(ふた)にたとえ、
その蓋(ふた)に5種類あるんだよ、と教えてくれます。

 

  @欲しい欲しいと、欲望でいっぱいの心持ちの時。

 

  A怒りの心でいっぱいの時。

 

  B心も体も疲れて、衰弱している時。

 

  Cそわそわして心が浮ついている時。

 

  D疑いやためらいの心がいっぱいの時。

 

この5つを「五蓋(ごがい)」といい、この時は仏さまの話を聞くどころではない、と言われます。

 

親鸞聖人、そして蓮如上人は、中でも5番目、疑いの蓋をつよく誡められました。

 

私のものとには、阿弥陀さまが、慈悲いっぱいのお心で、今すでに、南無阿弥陀仏と届いてくださいます。

 

そのはたらきを疑い、拒絶するということは、

 

たとえば、、、

 

 父が、私を心配してかけてくれた電話をわざわざ切るようなもの、

 

 母が、私を心配して送ってくれた段ボールいっぱいの荷物を突き返すようなものだ、

 

 と、言われます。

 

今日も、この身に届く「南無阿弥陀仏」を、有り難くいただきます。

2021年5月

人のからだは、食べたもので作られる
人のこころは、聞いた言葉で作られる
人のみらいは、話した言葉で作られる

すごく考えさせられる標語です。

 

よくよく考えてみると、私の身体は、不思議です。
他の命を口に入れ、口から食堂、食堂から胃、胃から腸と、順々に消化していくそうですが、口に入れたその命、どの段階で、「私」になるのでしょう。
そう考えると、私の身体だと簡単に考えていますが、私だけの身体ではないような気がしてきます。

 

私の心も、簡単ではありません。
人間の脳は、主語が認識できないと聞いたことがあります。
私の脳は、他人に対して投げかける言葉も、自分の耳を通して聞いています。
でも、脳は主語を認識できないので、他人に「バカ」と言えば、私の脳は、「バカ」を自分のこととして聞くそうです。
私にも、思い当たる節があります。
子どもを強くしかりつけた時、自分でも涙ぐむときがあるのですが、もしかしたらこの原理のせいかもしれません。
そう考えると、私の心は、他人から語り掛けられている言葉だけではなく、自分の発している言葉ででも、作られているのかもしれません。

 

私の未来は、どうでしょう。
未来は、思った通りになるのではなく、行動した通りになります。
私の行動による業が、その報い(結果)を引っ張ってくる。
まさに自業自得です。
ですが、私の行動のもとには、私の心があります。
心にもないことをすることはありません。
心にあるから行動します。
その行動のもととなる心を、言葉が作っているとするならば、私の未来も、言葉が作っているのかもしれません。

 

仏教では、私たちの行為を、身・口・意に分けて考えます。
心と体のみではなく、わざわざ口業、言葉を加えて説明するのです。
このことからも、色々考えさせられます。
浄土真宗は、南無阿弥陀仏のお念仏の宗教ですから、この標語に、阿弥陀さまを加味して、少し変えてみます。

 

・私のからだは、多くの命で作られる
・私のこころは、南無阿弥陀仏で作られる
・私のみらいは、南無阿弥陀仏で作られる

 

今、私たちは、「南無阿弥陀仏」のお念仏をいただきます。
多くの命に支えられているこの身体を使って、「南無阿弥陀仏」と称えます。
多くの命に支えられているこの身体に、「南無阿弥陀仏」を聞かせます。
「南無阿弥陀仏」が心に満ちて、仏さまになる未来が与えられます。

 

この標語を見た時、「なるほどな、こういうことかな」、と思ったのです。

 

人間の使う言葉と、お悟りからの名のりの言葉の違いはあれど、この標語をおとおして、南無阿弥陀仏の味わいが、また少し深くなった気がします。

2021年4月

消しゴムの本当の役割は  間違いを消すことじゃなくて
 間違えたっていいんだよって  鉛筆を安心させることだ

ネット上で見かけたこの言葉。
身近なところに深い味わいがなされてあって、素敵だと思いました。

 

皆さんは、「鉛筆」と「消しゴム」に、どの様なイメージをお持ちでしょうか。
私は、何のイメージも持っていませんでしたが、この標語からは、何らかのストーリーを感じます。

 

昨今では、過ちを犯してしまった人を、ネットやテレビで再起不能になるまで叩き続けることがあります。

 

そのことからすれば、過ちを犯してしまった「鉛筆」に対して、不機嫌そうに、その尻拭いをする「消しゴム」の姿を想像してしまうかもしれません。

 

緊張し、びくびくしながら働く「鉛筆」と、その隣で冷たく眺めている「消しゴム」。

 

でも、本当はそうではないかもしれない。

 

「消しゴム」は、言います。

 

『間違えたっていいよ。
 いつでも書き換えればいいんだから、今の精一杯を表現してよね。
 間違えた時には、いつでもなおすから、安心してね。
 なおせるボクが、いつでもキミの隣にいるよ。』

 

緊張する「鉛筆」に、やさしく微笑む「消しゴム」。
やがて「鉛筆」は、小さくうなづき、筆を走らせはじめる。

 

そんな情景が思い浮かびませんか。

 

結果的には、「消しゴム」が消すんだけれど、消すことそのものよりも、大丈夫だよって、「鉛筆」のそばにいることが力になる。
「消しゴム」と「鉛筆」。
素敵なセットです。

 

この人生においても、私と阿弥陀様は、セットです。

 

いつでも隣にいて、微笑んでくださる。

 

そんなあたたかな存在を、イメージさせてくれる言葉でした。

2021年3月

死にむかって 進んでいるのではない
今をもらって 生きているのだ  / 鈴木章子

鈴木章子(すずきあやこ)さんというお方は、北海道の真宗大谷派のお寺の坊守様だったそうです。
お寺の幼稚園の園長先生もなされ、4人のお子さんのお母さんでもありました。
ですが、42歳で乳癌が見つかり、47歳でご往生なさったそうです。
今月の言葉は、その鈴木章子さんが遺された詩の一節です。

 

 死にむかって進んでいるのではない
 今をもらって生きているのだ
 今ゼロであって当然な私が
 今生きている
 ひき算から足し算の変換
 誰が教えてくれたのでしょう
 新しい生命
 嬉しくて 踊っています
 “いのち 日々あらたなり”
 うーん 分かります

 

当たり前に過ごしている一日一日の意味を、再確認させてくれる内容です。

 

今日のこの日は、地球が始まって以来、まだ誰も生きたことのない一日です。
その一日一日の新鮮さを思います。

 

昔、我が家には日めくりカレンダーがありました。
その日一日の情報だけが確認でき、終わればちぎって捨てていく。
年始には分厚かったカレンダーが、日々ちぎられ減っていき、年末にはペラペラになります。
一日が終わり、新しい一日が始まる。
そんな感覚がよく分かります。

 

ですが、人生とカレンダーでは、過ぎた一日の扱いが、大きく違うように思います。
日めくりカレンダーでは、ちぎられた日々は、ただ単に捨てられていくだけかもしれません。
ですが、人生の実感としては、過ぎし日は、むしろ積み上げられて、増えていくような気がします。
そのちぎられた日々こそが、私の人生であり、命の歴史です。

 

阿弥陀さまという仏さまは、日々、私とご一緒です。
楽しい時もあるけれど、つらい時もありますし、悲しい時もあります。
どの様な時でも、阿弥陀さまは、ご一緒です。
私の人生、どこをとっても、阿弥陀さまがご一緒でなかった日はありません。

 

そう考えると、ちぎられ、積み上げられた日々は、阿弥陀様がご一緒の、尊い日々です。
捨てられていく時間ではなく、仏さまがご一緒くださった、尊い時間の積み重ねとも言えます。

 

命終る時に、人生を振り返る余裕があれば、何を想うでしょうか。
楽しいことも多かったけれど、つらいこと、悲しいことの方が多かった。
たとえそうとしか思えない人生であったとしても、
どこを押さえても仏さまがご一緒下さる人生だった、と、私の人生そのものに手を合わせていけるような、そんな足し算の人生を歩ませていただきます。

 

今日も一日、阿弥陀様がご一緒の、まっさらな一日であります。

 

南無阿弥陀仏。

2021年2月

名前は、親が子供に送る、はじめての手紙なのかもしれない。

今月の言葉は、2012年の新聞に掲載された広告コピーだそうです。
あぁ、本当だな、と考えさせられました。

 

普段、街を歩いていると、沢山の人とすれ違います。
仕事帰りで早足に歩くお方。
手押し車を押し、一歩一歩、ゆったり歩いておられるご老人。
子供と手をつないで歩くお母さん。
学校帰り、友達とおしゃべりしている学生さん。

 

すれ違うだけの人ですが、その一人一人は、必ず自分の名前を背負って生きています。
百年もさかのぼる必要はありません。
ほんの何十年か前には、必ず、赤ちゃんだったころがあったはずです。
そしてそのそばには、お世話をしてくれた、お父さんやお母さんがいたはずです。
そのお父さんやお母さんは、目の前の赤ちゃんに名前をおくります。

 

赤ちゃんが、一生背負っていく名前です。
一生懸命考えたと思います。
この子にはこうあってほしいという未来、こうあってほしいという性格、こうあってほしいという友人関係、こうあってほしいという幸せ。
色々な願いを、目の前の赤ちゃんに托し、名前をおくったのではないでしょうか。
そして、おくられた赤ちゃんは、その人生の中で、何度も何度も、その名前を書き、その名前を呼ばれます。
その名前に込められた願いと共に、その人生を歩んで行く。
そして、一生かかって、その人生に托された願いに出会っていくのではないでしょうか。

 

そう考えると、その名前を、「手紙」と表現された標記の言葉のセンスっ!と、びっくりしました。

 

そして、今、目の前を歩く一人一人は、それぞれが、託された願いの中を歩いている。
そう考えると、なんでもなかった一人一人が、少し大事に思えるような気がします。

 

阿弥陀さまは、一人一人が歩む人生の、すべてをご存じです。
この度の人生だけではありません。
その前の命の時も、そのまた前の命の時も、ずっとご一緒だったそうです。

 

阿弥陀様は、きっとおっしゃるんだと思うんです。
「あなたの人生、知っているよ。
 あなたの笑顔、知っているよ。
 その涙、知っているよ。
 だからこそ、あなたのことが大事だよ。」

 

阿弥陀さまの眼差しの中には、胸がギュッと締め付けられるような、愛おしさがある。
そんなふうに味わっています。

 

南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

【住 職】 園 淵 和 夫  【若 院】 園 淵 和 貴
【住 所】 〒555−0001 大阪市西淀川区佃1−11−3
【電 話】 06 ( 6471 ) 6330
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