2023年11月

午前の法則を、人生の午後に持ち込む人は、心に大きな苦を受ける。

今月の言葉には、もとネタがありまして。
哲学者のユングと言うお方が、こんなことをおっしゃったそうです。。

 

「午前の法則を、人生の午後に引きずり込む人は、心の損害という代価を支払わなければならない。」

 

「午前」や「午後」と言っているのは、きっと人生についての事でしょう。
つまり、若いころに獲得した人生の法則は、老年になると通用しない、ということでしょう。

 

どういうことかと考えてみれば、人生の後半には、その価値観が変わっていくということが言えそうです。

 

歳を重ねると、色々なことに気づかされます。

 

若いころは、恥をかくのは嫌で、遊ぶことしか考えず、勉強は嫌なものです。
ですが、歳を重ねると、もっと恥をかいておけばよかった、もっと様々なことに挑戦しておけばよかった、もっと勉強しておけばよかった、そんな風に感じませんか。

 

おいしいと感じるものも、変わります。
脂っこい唐揚げや焼肉が大好きだったのが、お野菜中心の和食に落ち着きます。

 

そして、「当たり前」の内容も変わっていくのではないでしょうか。
健康で、当たり前。動けて、当たり前。家族や友達がいて、当たり前。
生きていて、当たり前。命があって、当たり前。明日があって、当たり前。

 

ところが、人生の午後には、この「当たり前」が、「当たり前」でなくなります。
これまで当たり前だったことが、当たり前でなくなる時に、人生の午後になるのかもしれません。

 

人生の夕暮れにさしかかった時、人はさみしさを覚えるようです。

 

そんなときにこそ、あたたかく響くのが、南無阿弥陀仏のお念仏です。

 

お念仏の中に、阿弥陀さまがおっしゃいます。

 

「ひとりじゃないよ、ひとりじゃない。私がいつも、ほら、一緒だよ。」

 

そのことを味わうために、またお念仏をいただきます。

 

歳を重ねれば重ねるほど、あたたかくなるのが、お念仏の味わいではないでしょうか。

 

そんなことを思った、今月の言葉でありました。

 

南無阿弥陀仏

2023年10月

夕焼けて 西の十万億土 透(す)く 

インターネットを見ていて、出会った俳句です。

 

お寺の月参りでお勤めする『仏説 阿弥陀経』。

 

そこには、「ここより西方、十万億の仏土を過ぎて、世界あり。名付けて極楽という。」と示されます。

 

私の感想ですが、この俳句では、お浄土のことが詠われているのではないでしょうか。

 

夕焼けがあまりにも美しく、お浄土が目に浮かぶようだ。

 

そんな感動を詠われたのだと、勝手に解釈しています。

 

うちの娘が幼稚園の時、神戸フルーツフラワーパークに遊びに行きました。

 

小高い丘の上から、娘をおんぶしながら、町に沈みゆく夕陽を見ました。

 

すごく美しい景色でした。

 

背中の娘に言いました。

 

 あの夕日の向こうに、仏様の国があるそうよ。
 命が終わったら、優しい仏さまに抱っこされて、みんなそこに生まれていくそうよ。

 

すると、背中の娘が言いました。

 

 へ〜。きれいだね〜。行ってみたいな〜。

 

どのようなものにも感動を与え、
どのようなものでも、行ってみたいと思わせる。
お浄土には、そう思わせるご用意がある。

 

そんなお浄土の土徳を、教えられた出来事でした。

 

9月は、お彼岸の季節です。

 

真西に沈む太陽をご縁に、命の帰り往くお浄土を思う季節です。

 

南無阿弥陀仏

2023年9月

人間関係は、鏡である。鏡は先に、笑わない。 

今月の言葉は、人間関係をあらわす言葉です。

 

人間関係は、鏡である。鏡は先に、笑わない。

 

なるほどな、と思わされます。

 

笑顔を求めたときに、鏡の方が先に笑いかけてくることはありません。
自分が笑顔を向けたとき、はじめて鏡の中の自分も笑いかけてきます。

 

人間関係も然り。

 

他人に笑顔を求める時は、こちらの笑顔が先だよと、教えてくれる言葉です。

 

大切なことだな、と思います。

 

ひるがえって、仏さまのことを思います。

 

善導大師の言葉には、次のようなものがあります。

 

「読誦大乗」と言ふは、これ経教はこれを喩ふるに鏡の如し。
しばしば読み、しばしば尋ぬれば智慧を開発す。

 

意味は、二通りあるようです。

 

一つは、現代の鏡としての理解。
経教に説かれる人間のありようを自分の姿鏡として尋ね、自らを修正すべし。

 

一つは、古代の鏡としての理解。
何度も磨かなければくすんでしまうように、経教を何度も尋ね磨いて、初めて智慧が開かれる。

 

私は、後者の方が好きです。

 

なぜなら、仏法は、姿見の鏡のように、後から動くものではないからです。

 

阿弥陀さまは、こちらが動く前から、先に動いてくださる仏さまです。

 

私が願う前から、頼む前から、先に立ち上がり、先に来てくださる。

 

だから、今、この口に、お念仏の声となって、ご一緒です。

 

人間関係は、鏡である。鏡は先に、笑わない。
仏法は、鏡ではない。鏡は先に動かない。

 

そんなことを思った、今月の言葉でありました。

 

南無阿弥陀仏

2023年8月

亡き人の 願いに出遇い 手を合わす

8月は、お盆の季節です。

 

お盆は、日本最大の仏教行事だそうです。

 

最近のテレビでは、「レジャーの季節」として報道されているような気もしますが、
ぜひ、お墓参りをしていただきたいと思います。

 

お墓参りをすることは、ご先祖様を思う、自分の命の根っこを訪ねることです。
また、亡きお方のことを思うことで、そのお方と出会い直していくことでもあります。

 

お墓の前に立つ時間を、人は、どのように過ごすでしょうか。

 

そのことを味わう、さまざまな言葉があります。

 

 ・「そやったん」 言うてほしくて 墓参り

 

 ・親の背を 流すごとくに 墓参り

 

 ・亡き人を偲んでいると 独り言が 独り言でなくなる。

 

 ・亡き人と、声なき声、言葉なき言葉で、会話する。

 

さまざまな味わいがあり、どれも有難く思います。

 

亡きお方々は、今、仏さまとなって、何を願っておられるのでしょうか。
それは、後の世を生きる私たちの、幸せです。

 

今、墓前に足を運び、手を合わせ、お念仏し、頭を下げています。
お墓参りの準備をし、実際に来た、そのことが、今、亡きお方の願いに包まれているすがた、そのものです。

 

亡きお方は、遠くにおられるのではありません。
短い期間だけ、帰ってこられるのではありません。
いつでも、どこでも、南無阿弥陀仏のお念仏となって、ご一緒くださいます。

 

「独りじゃないよ、一緒だよ。」
そのことを、南無阿弥陀仏の声で、知らせてくださいます。

 

そのはたらきにつつまれて、促されて、今墓前に立ち、お念仏している。
そのはたらきに支えられたいのちであると、命の根っこを確認する。
それが、お墓参りの一つの味わいではないでしょうか。

 

称名相続

【住 職】 園 淵 和 夫  【若 院】 園 淵 和 貴
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